今回ご紹介するのは、井上馨です。
幕末期から大正期まで、長らく政界・財界に影響を及ぼし続けた男は、いったいどのような人物であったのでしょうか。
政治面・私生活面の両面から、彼の実像に迫っていきます。
- 井上の行った鹿鳴館外交とは?
- 井上は汚職事件に関与した?
- 井上の私生活は個性的だった?
今回はこのような点を特に詳しく見ていくので、是非ご注目ください!
目次
井上馨の鹿鳴館外交について
1883年に建てられた鹿鳴館は、井上馨が外務大臣を辞任する1887年まで、国賓の接待や舞踏会のために用いられました。
この期間を「鹿鳴館時代」といいます。
外国人へのもてなしを良くすることで、外交関係も良好にしようと考えたわけです。
しかし当時は、日本の政府高官でさえも西洋のマナーやエチケットなどは知っておらず、西洋人の目にはこの舞踏会の光景は滑稽に映ったようです。
また当の外交関係も、外国人判事の任用など日本に不利と思われる条約改正が行われ、井上は面目を失って辞任することとなります。
ですので、この鹿鳴館外交が効果的であったとは、あまり言えないでしょう。
次に、井上が鹿鳴館を建てた理由に迫ります!
鹿鳴館を建てた理由や効果
鹿鳴館ができた背景から見ていきます。
当時日本にいた外国人の中には、磔や打ち首などの「前近代的」な刑罰を目撃している者が多数いました。
外国政府は、自国民が日本において、そのような刑罰に処せられることを危惧しており、それが不平等条約の改正を渋っていた理由の一つでした。
これを受けた井上は、日本が文明国であることを世の中には広く知らしめることが、不平等条約の改正につながると考え、欧化政策を推進していくのです。
その一環として、欧米風の施設で外国使節を接待するために、鹿鳴館を建造したというわけです。
しかし、前述のように鹿鳴館での催しは外国人の心を動かすほどのものではなく、鹿鳴館外交は成功したとは言えません。
次に、ある汚職事件について取り上げようと思います。
汚職事件の真相
井上が関与したとされるのが、尾去沢銅山汚職事件です。
現在の東北地方に南部藩という藩があり、尾去沢鉱山を所有していました。
この鉱山は、商人である村井茂兵衛という人物から藩が金を借りることで運営されていました。
しかし、身分制度を基とした当時の慣習から、書類の上では村井が鉱山を借りて運営していることになっていました。
明治時代に入り、鉱山の採掘権は村井の元に渡りましたが、証文に目をつけられ、村井は苦しい立場となります。
そして、大蔵省により鉱山は差し押さえられ、村井は破産してしまいます。
もちろん村井は異議を申し立てるのですが、これは聞き入れられず、鉱山は払い下げを受けることとなります。
村井はその後も訴えを続けるのですが、1873年に失意の中で亡くなりました。
次に、この汚職事件に井上がどのように関わっていたのかについて見ていきます!
汚職事件はすべて井上馨が中心だった?
上記の汚職事件に深く関与したと言われているのが井上馨です。
井上は当時、大蔵副大臣にあたる職におり、
- 証文に目をつけ、これを元に返済を求めた
- 鉱山を競売にかけて、同郷人に無利息で払い下げたうえ、鉱山の私物化も図った
とされているのです!
しかし、この事件の真相は解明されずに曖昧なまま、時は過ぎて行くこととなりました。
というのも、この事件を追及した江藤新平という人物は、佐賀の乱を起こして死刑となってしまったのです。
江藤がもしその後も追及を続けられていれば、井上は政界に復帰することができなかったかも分かりませんね。
次の章では、井上馨の生涯を概観します。
井上馨の生涯
井上馨は1836年に長州で生まれました。
幕末期、彼ははじめ尊王攘夷運動に共鳴しますが、イギリスに密航した際に日本との国力の差を実感し、開国論に転じました。
この時井上を含めた密航者5人は「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれており、このうちの一人が伊藤博文でした。
王政復古ののちは、政府により参与兼外国事務掛に任じられ、明治維新後に大蔵省に入ります。
1871年に大久保利通や伊藤らが岩倉使節団として外遊を始めると、井上は留守政府を預かることとなります。
彼は当時巨大な機関であった大蔵省の長官として、国内でかなりの権勢を振るっていたようで、各省と対立することとなってしまいます。
1873年に、予算問題や汚職事件を追及されて、彼は辞職することとなり、一度政界を離れます。
しかし、伊藤の強い要請もあり、すぐに政界に復帰します。
1879年に外務卿となり、1883年には鹿鳴館を建てて欧米諸国との不平等条約の改正に向けて尽力します。
1885年に伊藤が内閣総理大臣となると、井上は初代外務大臣に就任します。
その後は、農商務大臣や内務大臣、大蔵大臣を歴任し、長きにわたって政府を支え続けました。
1901年には大命降下(天皇からの組閣の命)を受けますが、内閣を諦めます。
これは、政党と官僚閥ともつながりがなく、財界以外に基盤を持たないために、政権運営ができないと判断したものと考えられています。
1909年に伊藤が暗殺されたのちは、元老の一人として政界・財界に大きな影響を与え続けます。
彼は1915年に、79歳でこの世を去りました。
次の章では、井上馨の子孫について見ていきます!
井上馨の子孫の現在は?
井上馨の孫に、井上光貞という人物がいます。
この人物は、日本古代史を専門とする歴史学者として活躍し、東京大学名誉教授も務めました。
光貞氏は故人ですが、彼のお孫さんは現在もご存命中とのことです。
現在のご活躍については詳しくは分かりません。
ちなみに、光貞氏の父親は桂太郎の三男に生まれて、井上家に養子として入っています。
下の家系図もご覧ください。
次の章からは、井上馨の個性的な私生活に迫ります!
まずは、家系図について見てみましょう。
家系図
井上馨は料理が上手だった?
当時の日本では、男性が料理をすることはあまり一般的ではなかったようです。
そんな中、井上馨は現在で言うところの料理研究家のようなことをしていたようです。
具材をこだわり抜いたり、他の人がやらないような具材の組み合わせを試みたりしていたようです。
しかし、あまりに個性的すぎたためにその味は広くは受け入れられなかったともいいます。
ただ、彼の作った「たくあん」だけは一般的にも親しみやすい味だったようで、伊藤博文やのちに大正天皇となる当時の皇太子も絶賛したといいます。
次に、井上の女性遍歴を見ていきます!
井上馨は女遊びばかりしていた?
井上馨は何人もの女性に好意を持ってきました。
幕末の長州征討が終わった際出会った女性が最初の妻です。
その後すぐに別の娘と結婚、二番目の妻となります。
すると今度は京都の祇園で娘を好きになり、東京では小浜という女性に好意を抱きます。
小浜の家は貧乏だったようで、井上は資金的にもかなり支援していたようですが、ライバルに取られてしまい、諦めます。
次は鳥助という人物で、この人はのちに妻となるかよ子です。
ここまででもかなり多くのエピソードがありましたが、また続きがあります。
次の章では、井上が晩年に惚れた丸子という人物との関係を見ていきます。
井上馨が晩年愛した丸子とは?
丸子はもともと新橋で売れっ子だったようで、彼女に惚れた井上は彼女の財産を増やせるように動いていました。
しかし、ある時彼女が別れを切り出し、事件は起きます。
なんと、井上は現在なら3000万円にも値する金を手切れ金として用意し、この金を受け取る代わりに、死ぬまで他の男を好きになるな、と命令したのです!
丸子は当時他に男がいたようで、この金は当然受け取りませんでした。
この時井上は70歳、丸子は25歳ほどだったようです。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、井上馨について振り返ってみます。
井上馨は1836年に長州で生まれ、幕末期は長州五傑の一人として活躍しました。
明治維新直後は、留守政府で権勢を振りかざしており、尾去沢銅山汚職事件にも関与したと言われています。
その後一度政界を離れるもすぐに復帰、外務卿・外務大臣として不平等条約の改正に努めたほか、様々な大臣職を歴任しています。
その後も元老の一人として政界・財界に大きな影響を与え続け、1915年に79歳で亡くなりました。
彼は不平等条約の改正のためには、文明国である日本をアピールし、外国の賓客をもてなすことが必要と考えており、鹿鳴館を建造します。
1883年から井上が外務大臣を辞任する1887年までを鹿鳴館時代といい、鹿鳴館では舞踏会などが開かれましたが、効果はあまりあったとは言えませんでした。
井上馨の子孫としては、馨の孫である歴史学者・井上光貞氏のお孫さんがご存命とのことです。
井上馨は、私生活でも様々なエピソードを残しており、個性的な料理を振る舞ったり、多くの女性に好意を持ったりしていたようです。
人間味あふれる彼について、興味のある方は是非さらに調べてみてはいかがでしょう!