今回解説していくのは銅像でもお馴染みの二宮金次郎!
昔では日本人のあるべき姿として教科書でも必ず登場していた人物なんですが、今回はそんな二宮金次郎について
- 二宮金次郎とはどんな人物だったのか?
- 二宮金次郎の名言や業績
- 二宮金次郎の銅像はどうして小学校から姿を消したのか?
- 二宮金次郎の銅像ブームと彼が残したかったメッセージについて
- 二宮金次郎の本や映画などの紹介
などを解説していきたいと思います!
目次
二宮金次郎とはどんな人物?
二宮金次郎は1787年に小田原で生まれ、1856年に日光付近で亡くなった幕臣です。
ちなみに、二宮金次郎は後に二宮尊徳と呼ばれるようになりましたが、ここでは金次郎で統一したいと思います。
今ではあまり見かけなくなりましたが、元々彼は日本人の模範的な人間として扱われ、勤勉の象徴として銅像となったりもしていました。
元々彼の家は小田原の中でもかなり有名な方の百姓でしたが、関東地方を襲った大雨によって田畑は崩壊。
家も決壊した川によって流されてしまいました。
どん底に落ち込んでしまった二宮金次郎でしたが、彼は諦めずに田畑を復活。
その途中に両親が亡くなったり、また水害に巻き込まれたしましたが最終的に復興。
復興したのちは自身が身につけた勉学を活かして小田原藩の家老の家を立て直したり、村々を再興させたりして小田原藩の中で功績を挙げていきました。
そしてその名は幕府にも知れ渡り天保の改革の途中であった1842年に幕臣として取り立てられます。
当時としては珍しい百姓から武士へと転身を遂げたのでした。
そして最期は自分が働いていた下野国今市村(栃木県日光市)で亡くなりました。
名言
『道徳を忘れた経済は罪悪である。
経済を忘れた道徳は寝言である。』
『大事を成さんと欲する者はまず小事を務むべし。
大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて成り易きを務めざる者は小人の常なり。
それ小を積めば大となる。(積小為大)』
二宮金次郎の業績は?
二宮金次郎の最大の業績といえばやはり崩壊した村々を復興させたことにあると思います。
江戸時代末期になると飢饉が頻発するようになり、村が壊滅状態となるのは当たり前のようになる程深刻な状況に追い込まれることもしばしばでした。
しかし彼は、
- 600の村々を再興させる
- 小田原藩の武士などがお金を貸し借りできる制度である五常講を設立する
- 当時家臣として仕えていた小田原藩家老の服部家の借金を完済させる
などの業績をあげました。
さらに幕臣に取り立てた後に赴任された小田原藩の藩主である大久保家の分家である宇津家が治めていた下野国桜町村を復興させるように命令します。
二宮金次郎は当時流れていた穴川用水を改造。
お助け堀を作り桜町村の収穫高を見事に上げて見せて宇津家は財政を立て直すことに成功したのです。
このように二宮金次郎は自身の頭脳を使い数々の農村の立て直しをした人物だったのです。
なぜ二宮金次郎の像が小学校から姿を消したのか?
二宮金次郎が小学校から姿を消したのは二つの時代背景があったからだと言われています。
まず、昭和初期に入ると日本は戦争ムードに突入し、ありとあらゆる金属が国に供出するようになりました。
もちろん二宮金次郎の銅像も例外ではなく学校にあった二宮金次郎の銅像は国によって溶かされてしまったのでした。
また、戦後に入ると二宮金次郎の銅像が現代にそぐわないという意見が出始めてしまいました。
今では15歳未満の人は労働基準法において仕事をすることが禁止されています。
子供の時から働いている二宮金次郎は子供に悪影響を及ぼしてしまうというのです。
この意見は私からしたらどうかと思いますけど、これが時代の流れってやつなんでしょうかね。
最近の二宮金次郎の像は座っている?
二宮金次郎の銅像は昔は立ったのが主流でしたが、いつしか座って本を読むことが主流となってきています。
普通に立った銅像のままでもいいのではないかとは思いますよね。
しかし、実はこれには訳があって、平成後期ぐらいにスマホが普及するようになると日本各地でながらスマホなど歩いたままスマホを使って事故を起こしてしまうながらスマホが問題視されるようになりました。
こうなってくると小学校の頃からながらスマホをしてはいけないという教育を施さなければなりません。
ですが、そうなると「歩きながら本を読むのはながらスマホなどのながら行動を誘発するのではないか?」という意見が多発。
そのため最近では銅像自体を撤去したり、二宮金次郎を座らせた銅像を代わりに置くという措置がとられているそうです。
二宮金次郎の像ブームはいつから?
二宮金次郎の銅像が建てられるようになったのは大正時代。
元々明治時代の頃でも1904年に修身(今の道徳)の教科書で取り上げて以降、自らの力で家を立て直し、国のために奉公した二宮金次郎の姿は日本人のあるべき姿だとして注目されるようになりました。
そして、大正時代に初めて銅像が建てられて以降国のために忠義を尽くすことが美徳となった昭和初期に爆発的に流行。
戦後に入っても彼の人生が学校教育に適しているとして今でも像が残っているという訳なんです。
二宮金次郎像が示す子供に伝えたい本当の意味は?
二宮金次郎の銅像が伝えたかった本当の意味。
それはなんといってもどんな境遇にあっても勉強する心を忘れないという心意気を忘れないということです。
江戸時代では寺子屋という勉強の施設はあったものの、百姓の場合だったら仕事を手伝わなければなりませんし、勉強をしている暇はありません。
特に幼い頃に両親を失っている二宮金次郎は薪を売りながら本を読んだり、コツコツと働きながら勉強したこともありいつしか小田原藩の家臣に、最終的には幕府の直属の家臣に登用され数々の功績を残しました。
このように二宮金次郎のように勉強に励んでいるといつしか自分のためになるというメッセージを残したかったのかもしれませんね。
二宮金次郎の子孫は嵐の二宮和也?
二宮金次郎と嵐の二宮和也は同じ二宮という名字ですが、子孫ということはほとんどありえないでしょう。
二宮という名字をつけている人はたくさんいますので名字が一緒だから子孫だということはまずありえないことだと思います。
ちなみに、二宮金次郎の子孫は兵庫県の報徳学園の校長や富士山の麓に農業の協同組合を設立しています。
二宮金次郎の子孫たちは教育者や農業関連に勤めていたのですね。
二宮金次郎の生涯を描いた映画
さまざまな功績を残して今では銅像になるほどの人物である二宮金次郎。
最近では彼の業績を再評価しようと2019年に二宮金次郎の生涯を描いた映画『二宮金次郎』が公開されます。
主人公である二宮金次郎を合田雅史が演じ、二宮金次郎の少年期を軸にした作品で非常に見応えがある作品となっていますので一度劇場に足を運んでみてはどうでしょうか?
二宮金次郎を描いた本
銅像に良くなっていることもありかなりの知名度を誇っている二宮金次郎ですが、その生涯を知っている人はあまりいません。
しかし、二宮金次郎の一生涯を描いた本は沢山あります。
例えば三戸岡道夫作の『二宮金次郎の一生』や松沢成文作の『教養として知っておきたい二宮尊徳』などは二宮金次郎の生涯を事細かに、そしてその彼の業績が今の日本社会になぜ必要なのかを説いています。
非常に読みやすく面白い本などで是非いかがでしょうか?
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 二宮金次郎は小田原藩の家老の財政を立て直したり、村々を再興させたことが評価され最終的に幕府の家臣となった
- 二宮金次郎は明治時代に修身の教科書に採用され、大正時代に入ると二宮金次郎は模範的な日本人として銅像が建てられるようになった
- 二宮金次郎の銅像は昭和初期に戦争ムードに入ると金属として国に駆り出されたり、今では時代にそぐわないとしてだんだん減少している
- 二宮金次郎の子孫は教育者や農業関連に勤めていた
- 二宮金次郎の映画が2019年に公開される
最後になりましたが、二宮金次郎の村々を再興させた術は明治時代に入ると参考にされるようになりました。
二宮金次郎はまさしく、日本人の模範的な人物だったのですね。