大政奉還を行って、名目上は幕府を消滅させつつも自分が実質的トップに立とうとした徳川慶喜。
しかし、これに不満を抱いた西郷隆盛率いる薩摩藩は、同盟を結んだ藩と共に幕府派の公家を追い出し、『王政復古の大号令』を行い、旧幕府勢力を朝廷から一掃。
不満を抱いた慶喜ら旧幕府軍は、薩摩藩の挑発もあってついに武力で新政府軍を鎮める決意に乗り出します。
このようにして戊辰戦争が始まるのですが(ちなみに戊辰とは、勃発時の干支が『戊辰』であるため)
- 戊辰戦争の行方は!?
- 幕府方の先兵となって戦った新選組の行方は!?
- 戊辰戦争勃発の最高責任者である西郷隆盛はのちにどうなったのか!?
- やはり西郷が最高責任者である西南戦争との違いは!?
こちらについてみていきます。
ちなみに、当時は月の満ち欠けで暦を図る太陰暦が主流だったのですが、以下の日付は旧暦上の記録で書いていきます。
目次
戊辰戦争とは?簡単に解説!
1868年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いから始まる、薩摩・長州・土佐といった雄藩からなる新政府軍と、徳川慶喜率いる旧幕府軍および会津をはじめとする東北の幕府派の藩が結んだ『奥羽越列藩同盟(おううれつれっぱんどうめい)』との戦争のことです。
研究者によるとこれには
『天皇を飾り物にして、徳川中心に連立政権を築こうとする旧幕府軍と、天皇を実質的にトップに据え、幕府勢力を完全に排除する形で政権を築こうとする新政府軍の激突』
という、一種の権力争いの意味があるといいます。
戊辰戦争には三段階あり、
1.鳥羽伏見の戦いから江戸城無血開城までが、
『実質的トップは徳川か天皇かの争い』。
2.会津の戦いをはじめとする東北での戦いが、
『朝敵征伐を目的とした、新政府軍による東北諸藩(幕府派が多かった)という旧勢力の一掃』
3.榎本武揚が作った函館共和国(はこだてきょうわこく)、および函館での戦いが、
『困窮した武士(のちの士族)が新政府に反乱を起こす士族反乱の先駆け』
とみる向きが多くなっております。
次に、戊辰戦争の年表及び経過についてみていきます。
年表
・1868年1月2日、鳥羽伏見の戦い勃発。
それまで薩摩藩と旧幕府が挑発しあっていたたさなか(これに関しては後で説明します)、兵庫の幕府軍艦が薩摩藩の船に大砲を打ち込み、戦争が勃発。
1月3日には慶喜が大阪にある諸外国の領事に対し、薩摩藩と交戦したということを伝えると、ついに京都鳥羽・伏見で新政府軍と激突します。
これが鳥羽伏見の戦いです。
新政府軍5000人、旧幕府軍15000人で激突。
数では圧倒的に勝っていた旧幕府軍ですが、この時のために薩摩藩は最新式の銃であるスナイドル銃(すないどるじゅう。それまで弾装填に約30秒を必要とした先込め銃と違い、発射してから5秒で次弾を装填できる元込め銃)をはじめとした最新鋭の銃火器を用意し、突撃を中心とした旧幕府軍を多数撃破。
さらには、自分たちが朝廷の軍隊である正義の味方『官軍(かんぐん)』であることを知らせるデモンストレーションのため、新政府軍は天皇の紋章である菊章紋(きくしょうもん)が描かれた『錦の御旗(にしきのみはた)』を掲げて戦場を行進したのです。
結果、自分達が朝廷に歯向かう悪者『賊軍(ぞくぐん)・朝敵(ちょうてき)』とされた旧幕府軍は大混乱。
1月6日に、旧幕府軍の惨敗という形で鳥羽伏見の戦いは終結。
しかもこの戦いにおいて新選組は、六番隊組長・井上源三郎(いのうえげんざぶろう)や、スパイ中心に仕事をしていた監察(かんさつ)・山崎蒸(やまざきはじめ)を中心に、三分の一が戦死するという結果となりました。
本来は尊皇派でありながら、自分が朝敵とされた慶喜は大きく動揺し、密かに大阪城を脱出。
最高指揮官を失った旧幕府軍はあっという間に散り散り・ばらばらとなりました。
7日は慶喜追討令が朝廷で出され、旧幕府軍は正式に朝敵となります。
11日に朝廷から慶喜追討を目的とした、諸藩への上京命令が出されます。
結果、朝敵となることを恐れたほとんどの藩が上京し、新政府軍につくことになり、徳川の一族で京都守護職として治安維持にあたっていた桑名藩(くわなはん。現代の三重県を収めていた)も、1月末に新政府軍についてしまいます。
・1868年4月11日、江戸城無血開城
1月15日に命からがら江戸城に逃げ帰った慶喜は、主戦派の旧幕府高官を遠ざけた後、2月12日に上野の嘉永寺(かえいじ)でひたすら謹慎。
さらに勝海舟らを使って、新政府軍に抵抗しない意思を強調します。
しかし、鳥羽伏見の戦いで隊士の三分の一を失った新選組は納得がいかず、それならばと勝は、幕府の支配下で会った甲府を抑えるよう進めて、江戸から遠ざけます。
果たして甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改めた新選組は3月6日、甲府で敗北。
その一方、新政府軍は3月15日に江戸城総攻撃を定めますが、新政府と強い関係を結んでいたイギリスが、貿易に悪影響となることを恐れて攻撃の中止を求めたほか、慶喜が勝や山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使い、抵抗する気がないので江戸の町を火の海にしないでほしいと必死に嘆願していました。
そして14日に新政府軍の西郷と、旧幕府軍で降伏派の勝が高輪(たかなわ)の薩摩屋敷で会談。
『慶喜は隠居して水戸に謹慎』『江戸城は新政府軍の徳川一族・尾張藩に預けること』を条件に無血開城がまとまり、江戸は新政府の支配下となりました。
その後も新政府軍に反発する旧幕府軍が、船橋、宇都宮、上野と戦いますがすべて新政府軍に敗北し、ここで新政府が正式な政権と外国にも認められることになるのです。
このようなさなか、新選組局長の近藤勇は罪人として、4月25日に板橋で打ち首となりました。
・1868年5月6日 奥羽越列藩同盟(おううれつれっぱんどうめい)成立
幕末、徳川の一族でもあった会津藩は新選組を使い、攘夷志士の討伐を行っていました。
攘夷志士派が多かった新政府軍はその時の恨みや将来の不安から、会津藩の勢力を根絶やしにしたいと思っていました。
会津藩が旧幕府派についたこともあって、新政府軍は会津を朝敵とすることに成功。
仙台藩に会津藩を追討する命令を出しましたが、元々伊達政宗の代から徳川と親戚であった仙台藩は会津藩を討つことに消極的でした。
方や会津藩も、2月25日に天皇へ従う表明をしましたが、新政府は認めず武装も解きませんでした。
4月19日に旧幕府軍が宇都宮城を占拠したという話を聞くと、仙台藩は新政府軍に敵対すべきという意見が多数となりました。
そこで会津藩と仙台藩のほか、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩(えちごながおかはん。現代の新潟市や長岡市を含む新潟県南部を治めていた)とも同盟を結ぶことに。
そして、31藩による奥羽越列藩同盟が成立しました。
これは旧幕府軍とも新政府軍とも違う地方政権でした。
しかし、新政府との敵対を考えていなかった藩も同盟に含まれていたため、寄り合い世帯という要素が濃く、統一性がなかったのが実情でした。
・1868年5月19日ー8月7日 北越戦争(ほくえつせんそう)
越後長岡藩(えちごながおかはん)と新政府軍が長岡藩周辺で激突した戦争です。
長岡藩には諸外国との交易拠点であった新潟町(にいがたまち)があり、そこから長岡藩は、幕末三大兵器であったアームストロング砲、ガトリング砲などの最新鋭の武器を外国から購入し、さらに会津藩への武器供給ルートも作っていました。
そのため、旧幕府軍の輸送力と武器供給源を断つため、何としても新潟町を含めて、新政府軍は越後長岡藩を押さえておきたいところでした。
かたや越後長岡藩では、家老の河合継之助(かわいつぐのすけ)らによって軍制改革が行われ、兵の数で劣るもののスナイドル銃、アームストロング砲、ガトリング砲などの最新式の武器がそろっていました。
5月19日に越後長岡藩の政務拠点であった長岡城を巡って戦いが勃発。
一度長岡城を奪われはしたものの、最新鋭の武器をそろえた越後長岡藩は7月24日に長岡城を奪還するなどの善戦をします。
しかし、兵の数で劣るうえに、領民の戦への借り出し方も強引だったがため、越後長岡藩で一揆がおき、河合自身も膝に傷を負ってしまいます。
その混乱のさなか、巻き返した新政府軍は7月29日に長岡城を制圧。
河合は会津へ落ち延びる途中、膝の傷から破傷風(はしょうふう。傷口から菌が入ることで高熱などを起こす病気)を起こして8月16日に死去。
8月中旬には越後長岡全体が新政府軍の支配下となり、奥羽越列藩同盟は武器の補給源を絶たれ、急速に衰えていきます。
・1868年閏4月20日ー9月22日 会津戦争
前々から会津は天皇には抵抗しないことを示していて、奥羽越列藩同盟結成時点でも天皇には罪を許してもらう嘆願を示していました。
ですが、やがて東北制圧の総督であった長州藩士・世良修蔵(せらしゅうぞう)が東北の班に対する横暴なふるまいから仙台藩氏に暗殺されると、いっきに戦争に傾きます。
しかしここでも、会津が強引に領民たちに課税し、戦争に駆り出したことが災いしました。
領民たちの間では逃亡者が後を絶たず、のちに新政府軍が制圧した時も、彼らは『官軍様』とよび、会津藩主たちを『会賊(あいぞく)』と呼んで、新政府軍から馬や資金を要求された時も、歓迎してこれを要望するありさまだったといわれています。
そのような混乱の中で、ただでさえ数で劣る会津藩は苦戦を強いられます。
白河口、二本松と敗北を重ねていき、会津藩は少年まで駆り出して応戦しますがかないません。
その中で、12歳の少年まで加えた木村銃太郎(きむらじゅうたろう)率いる二本松少年隊が全滅します。
さらに16-17歳の少年たちで構成された白虎隊(びゃっこたい)の二番隊が、会津城下町で起きた火を会津城落城と勘違いして自害する事件も起きます。
さらに会津藩の家老・西郷頼母(さいごうたのも)の母や妻子は、自らが戦いの足手まといになるのを苦にして一族21人が自害してしまいました。
元新選組隊士で、この時山口二郎(やまぐちじろう)と名を変えていた斎藤一などの奮戦もありましたが、9月に頼みの綱の米沢藩をはじめ、同盟していた藩が次々と新政府軍に降伏。
会津藩自身もまた、22日に新政府軍に降伏。
ここに奥羽越列藩同盟は事実上の壊滅となりました。
藩主であった松平容保は本来なら死罪となるところ、江戸で謹慎となって護送されることとなりましたが、家臣たちはともかく領民たちは何の関心も示さず、見送りにもほとんど現れなかったといいます。
残存勢力は仙台で榎本武揚と合流し、北海道の函館へ向かいます。
ちなみに会津藩降伏後、会津の領民たちによって会津世直し一揆『ヤーヤー一揆』が起き、新政府軍は会津藩の旧村役人を使って彼らと交渉し、領民たちの要求のほとんどを実現させて彼らの支持を固めていきます。
元々会津藩は、幕府への忠誠心こそ厚かったものの、生真面目で頑固な性質が災いして軍制改革も遅れ、情報や領民も軽視していたために、奥羽越列藩同盟の中では苦戦が多かったといわれています。
・1868年10月21日ー1869年5月18日 箱館戦争(はこだてせんそう)
江戸城無血開城によって新政府軍は徳川に対し、領地の大幅な削減を命じます。
これによって8万人の幕臣が養えなくなった旧幕府軍は、海軍副総裁の榎本武揚の下、現代の北海道である蝦夷地(えぞち)にて北方の警備と開拓に当たらせることにしました。
無血開城の後も榎本は軍艦引き渡しに応じることなく、8月20日に品川沖を出発した後、元若年寄の永井尚志(ながいなおゆき)らとともに奥羽越列藩同盟の支援のため北に向かいます。
暴風に見舞われながらも9月中旬に仙台の東名浜沖(現代の宮城県東松島市の沖)に到着した榎本たちは、奥羽越列藩同盟を助けようとしますが、もうこのころには仙台、会津藩といった同盟の主な藩は降伏していました。
その中で旧幕府軍として東北で戦っていた旧幕臣の大鳥圭介(おおとりけいすけ)や、元新選組副長の土方歳三などを拾い上げて、約4000人の軍勢を作り上げていましたが、すでに新政府軍に降伏していた仙台藩は戦闘になることを恐れて榎本たちに退去を命じます。
10月9日に東名浜を出発した榎本艦隊は、石巻などを経由した後北上、10月21日に現代の北海道森町あたりにある鷲ノ木に到着。
幕府消滅以降、旧幕府の箱館奉行は新政府軍の箱館府に取って代わられ、彼ら約870名で榎本艦隊を迎え撃つことになります。
無用の戦闘を避けた榎本艦隊でしたが、箱館府軍の奇襲を受けて応戦せざるを得なくなり、大鳥軍と土方軍の活躍もあって箱館府は撤退せざるを得なくなります。
上陸からわずか5日後の10月26日に、榎本軍は箱館府の政務拠点だった五稜郭(ごりょうかく)を抑えることに成功。
江戸時代から北海道を納め、戊辰戦争では新政府軍についた松前藩(まつまえはん)も、11月22日に榎本艦隊に降伏。
12月15日、五稜郭を拠点に、榎本をトップである総裁とした箱館共和国(はこだてきょうわこく)の樹立を宣言します。
しかし軍資金確保のために御用金を商人から徴収したり、後に箱館で戦場となる一本木(いっぽんぎ)に関所を設けて通行税を取ったりしたことから、住民の評判はよくありませんでした。
榎本による箱館占拠はすぐさま新政府軍の知るところとなり、海からは幕末三大兵器と呼ばれた甲鉄艦(こうてつかん。後に東艦(あずまかん)と改名)を含めて1000名、陸からは8000人を箱館に向けます。
3月25日に旧幕府軍は、岩手県中部の宮古湾において甲鉄艦を奪おうとしますが失敗。
4月9日に新政府艦隊は現代の北海道乙部市である乙部に到着し、4つのルートから箱館へ向けて進軍。
松前、木古内(きこない)と戦い、二股口で土方率いる旧幕府軍に敗れましたが、矢不来の戦いで勝利し、土方軍の撤退に成功。
5月11日に、箱館の総攻撃が開始されます。
新政府軍参謀・黒田清隆(くろだきよたか。後に内閣2代総理大臣)によって函館山の旧幕府軍を奇襲。
高所を取って有利な場所につき、そこから猛攻を重ねます。
土方は孤立した軍を助けようとしますが、一本木関門にてついに銃弾に倒れます。
この後、甲鉄艦による五稜郭への射撃が開始され、旧幕府軍は脱走が相次ぎ、15日に永井も降伏。
榎本もついに5月17日、無条件降伏に合意。
翌日18日に榎本以下1000人が新政府軍に投稿し、ついに箱館戦争は終結。
そして、約1年間続いた戊辰戦争も終わりを告げるのです。
次に、この長い戦争の発端となったきっかけについてみていきます。
戊辰戦争のきっかけ
戊辰戦争の原因は、王政復古の大号令にありました。
尊王攘夷論と、侮幕(ぶばく。幕府を馬鹿にすること)・討幕論が高まってきていたことを知った幕府15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還を決意。
これによって、表むきは天皇に政権返上すると表明しつつも、政権担当能力のない頂点に代わって、引き続き自分が実権を握ろうと考えていました。
しかしながら西郷をはじめとする薩長等の武力討幕派は、大政奉還でも政権の中心が徳川であることに不満を持ち、ひそかに兵を率いて京都に上京。
12月9日に朝廷における親幕府派の公家を武力で閉めだした薩長は、岩倉具視を使って『王政復古の大号令』を出します。
これによって、慶喜は内大臣の位と土地の返還を命じられる一方、幕府と敵対していた長州藩は朝敵の認定を解除。
さらには、後に赤報隊(せきほうたい)の隊長となる相楽総三(さがらそうぞう)を使って薩摩藩は江戸で幕府方の屋敷の破壊工作を使って挑発。
これに業を煮やした老中の稲葉正邦(いなばまさくに)は、江戸の薩摩屋敷を焼き討ち。
慶喜は薩摩討つべしという幕府の声を抑えられなくなり、鳥羽・伏見の戦いに望んでいきます。
次に、この戦いの死者についてみていきます。
死者数について
戊辰戦争の総死者は新政府軍3588-6400人、旧幕府軍4690-8625人、その中でも女性を含めた会津藩が2557人と多かったようです。
新選組も鳥羽伏見の戦いでは148人以上でしたが、江戸に還った時には116人にまで減らし、仙台につくころには48人だったといわれています。
次に、新選組が活躍したかどうかについてみていきます。
戊辰戦争で新撰組は活躍した?
新選組はあくまでも幕末の攘夷志士の反乱を抑えるために設けられており、幕臣の身分をもらったのちも、政治中枢を変えられるだけの実力ではありませんでした。
しかも鳥羽伏見の戦い以降、慶喜が謹慎をし続け、勝海舟などの非戦派が幕府の中枢を握るようになると、主戦派であり、かつ幕末において多くの攘夷志士を討ち取り、新政府軍から強い恨みを買っていた彼らはむしろ幕府から疎まれるようになっていきます。
鳥羽伏見の戦い以降、勝のそそのかしで甲陽鎮撫隊と名を改めた新選組ですが、新政府軍の板垣退助に敗北。
一番隊組長の沖田総司は持病(肺結核といわれていますが諸説あります)の悪化で進軍中に離脱し、千駄ヶ谷の植木屋にかくまわれます。
局長・近藤勇と副長・土方歳三はその後の進退に関する争いから、結成以来の幹部であった永倉新八(ながくらしんぱち)、原田左之助(はらださのすけ)に見放された後、宇都宮で再起しようとはかります。
ですが、4月3日に新政府軍によって近藤は捕縛、25日に罪人として、35歳で打ち首になりました。
この2か月後に沖田も、後を追うように病死。
上野の戦いにおいて原田左之助も幕府側について戦死したといわれていますが、中国の清に落ち延びて盗賊となった、日清戦争において老兵として参加したという伝説もあります。
その後残った土方は、結成以来の仲間であった斎藤一とともに会津の戦い等を生き抜きますが、斎藤は会津に残り、土方は北上して榎本武揚の函館共和国で『陸軍奉行並(りくぐんぶぎょうなみ)』という職に就きます。
しかし、新政府軍の最後の攻撃でついに戦死しました。
享年35歳。
奇しくも近藤と同じ歳でした。
こうして新選組は、戊辰戦争終結とともに解散します。
しかし幹部系の隊士では、新選組結成前の仲間であった永倉新八と斎藤一が維新後も生き残ります。
(九番隊組長の鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)も維新後生き残ってますが、1867年3月に新選組から離反した後、戊辰戦争では新政府軍である赤報隊(せきほうたい)の二番隊組長となっているので外します)
永倉は維新後、杉村義衛(すぎむらよしえ)と改名し、北海道の樺戸集治監(かばとしゅうちかん。集治監とは刑務所のこと)で剣道の先生などを務めた後、1915年に77歳で死去。
斎藤は維新後、藤田五郎(ふじたごろう)と改名し、警視庁の警官などを勤め、西南戦争にも参加。
奇しくも永倉と同じ1915年に71歳で亡くなります。
(余談ですが、和月信宏の漫画『るろうに剣心 明治剣客浪漫譚・北海道編』ではこの2人がキーパーソンとなります)
幕府高官からはそっぽを向かれていても、最後の最後まで武士であることを貫き通し、幕府への忠義に殉じたのは確かといえましょう。
次に、戊辰戦争の最高責任者である西郷隆盛の戊辰戦争後についてみていきます。
戊辰戦争後、西郷隆盛はどうなった?
幕府などの旧体制勢力を一掃するため、慶喜の大政奉還をはねのけ、討幕の密勅を頼み王政復古の大号令を通して戊辰戦争を起こした西郷隆盛。(当時の名は吉之助(きちのすけ))
しかし北越の戦いで、弟である吉二郎(きちじろう)を戦死させてしまうという悲劇にも見舞われます。
それを苦に思ってか、箱館戦争終結後、2000石の石高と東京残留の命令を受けましたが、それらを辞退して鹿児島に帰ります。
『子孫のために美田を買わず(しそんのためにびでんをかわず。子供を甘やかさないために、子供には財産を残さないという意味)』という信念がある西郷は、正三位(しょうさんい)という高い位を受けながらも朝廷に返し、このころから、『隆盛』という名を使うようになります。
やがて維新後、明治政府に慢心が見られるようになると、岩倉具視や盟友・大久保利通の勧めもあって、改革のために明治政府・参議(さんぎ)として上京します。
やがて征韓論で大久保との意見が違うようになり、参議を辞任して西南戦争に参加するまで、西郷は明治政府の重鎮として務めるようになるのです。
次に、西南戦争と戊辰戦争の違いについてみていきます。
戊辰戦争と西南戦争の違いは?
戊辰戦争の箱館戦争は、維新によって暮らしが立ち行かなくなった幕臣たちが、榎本武揚の元に集まって新しい生活を成り立たせるために起こした最初の武力反乱です。
西南戦争は、維新後封建的な特権を奪われた武士改め士族が起こした武力反乱の、最後にして最大のものでした。
維新以降、廃刀令(はいとうれい)によって軍人・警察官以外の士族は刀を持つことを禁止され、刀を武士の魂としていた士族の不満が高まります。
さらに戊辰戦争以降、多額の借金に苦しんでいた政府が、秩禄処分(ちつろくしょぶん)によって、士族への給付を打ち切ったことによって、士族の暮らしが立ち行かなくなり、彼らは次々と反乱を起こすのです。
戊辰戦争の箱館戦争と、西南戦争は、維新によって暮らしが立ち行かなくなった者たちが、新しい生活と不満を掲げて起こした武力反乱という点で共通しています。
ただ、箱館戦争は榎本武揚を中心に、暮らしが立ち行かなくなった幕臣によって起こされていること、西南戦争は幕府を倒した、主に薩摩中心の士族が維新後暮らしが立ち行かなくなったことによって起こされています。
つまり首謀者が旧幕府側の人間か、新政府側の人間かが最大の差と言えましょう。
つまるところ、西郷もまた、西南戦争においては担がれた神輿に過ぎなかったというわけです。
余談ですが、箱館制圧に貢献した甲鉄艦は1872年に東艦(あずまかん)と名を変えた後、西南戦争において瀬戸内海の警護任務についています。
『日清談判(にっしんだんぱん。日清戦争直前の日本と清の交渉)破裂して、品川乗り出す東艦』
という戯れ歌は有名ですが、東艦は日清戦争の6年前の1888年に老朽化して除籍・解体されました。
次に、旧幕府側の急先鋒であった会津において、なぜ女性までもが戦ったのかについて書いていきます。
会津の女性はなぜ勇敢に戦ったのか?
一言でいえば、『会津の人間であるが故の生真面目さ』といえましょう。
実際に会津戦争においては、幕末のジャンヌダルクと呼ばれた山本八重(やまもとやえ。後の新島八重)をはじめ、会津藩士の一族であった女性が数十名、会津城の警護において娘子隊(じょうしたい。正式な名称は定まってませんでした)駆り出されたといわれています。
しかしながら、先ほど述べた西郷頼母の母や妻子21人が、戦いの邪魔になることを苦にして自害するといった悲劇も起きています。
会津藩の勘定方(かんじょうがた。今でいう会計係)の娘であった中野竹子(なかのたけこ)も、娘子隊のリーダーとして薙刀で奮戦しますが、新政府軍の銃弾で頭を撃たれ、敵の辱めを受けまいと妹の介錯を受けています。
勝海舟はこの会津の、悪い意味で頑固で融通の利かない性格を嘆いており、
「その思想は牢固(ろうこ。頑固)で、いたずらに生真面目である。とにかく見識が狭く、国家の急務が何たるかを知らない」
と語っております。
もっとも勝は徳川の一族でもあった会津藩とは違って、由緒正しい家柄ではなく、鍼灸師であった曽祖父が息子(海舟の祖父)のために幕臣の身分を金で買った『金上げ侍(かねあげざむらい)』の家の生まれであり、会津藩のような由緒正しい家柄でふんぞり返っている輩には冷めた目もあったといいます。
しかも会津藩は戦争のために領民たちから税を過酷に取り立て、戦争へのかり出し方も強引であったため、会津の農工商の人間からは逃亡する人間が多かったと伝えられています。
つまるところ、武家の女性は会津藩としてのメンツを重視し、新政府軍に対して勇敢にたたかったものの、会津の農工商の人間は女性を含め会津藩に総スカンで、会津戦争終結後も喜んで新政府軍を迎えたといえましょう。
次に、戊辰戦争におけるタブーについてみていきます。
戊辰戦争におけるタブー
実は東北の戦いにおいて長州はほとんど戦争に参加していないのですが、これ以降、会津と長州の溝はきわめて深いものになり、多くのタブーが作られ、それが現代でも続いているといわれています。
会津では「長州の男とは絶対に結婚するな」と言われ続けた子供がいたというエピソードもあります。
1986年に長州藩の政務拠点だった萩市が、会津藩の政務拠点だった会津若松市に対して、「『もう』120年『も』たったので」と戦争の和解と友好都市の申し入れをしたのですが、会津若松市は「『まだ』120年『しか』たっていない」と拒絶したといわれます。
長州藩の領地であった山口県の生まれである安倍晋三氏は、2007年に内閣総理大臣として会津若松市に訪問した際、『先輩が迷惑をかけたことをお詫びしなければならない』と言ったといわれています。
また、会津の薩摩への恨みも深いものとなり、後の西南戦争では、薩摩藩の重鎮で戊辰戦争の最高責任者であった西郷の軍団に対して『戊辰の復讐』という名目で官軍に志願する会津の人間が多く、かつ西郷と大久保が相次いで死ぬと、『当然の帰結であり喜べり』と叫ぶ会津の人もいたとか。
実は、今のギリシャとトルコも、オスマントルコ以来虐殺しあった仲で、その中でお互いの偏見も根深いといわれています。
『ギリシャ正教の司祭がつけている帯には絞め殺したトルコ人の子供数だけ結び目がある』という根も葉もないうわさや、『トルコ人が汚れたものとして口にしない豚肉を、ギリシャ人は平気で口にする』等。
(これはトルコ人の国教であるイスラム教が、豚を汚れたものと定義していることもあります)
古今東西、二つ以上の民族や一族の間に長年にわたる対立の歴史があると、お互いの相互理解も難しいものです。
大きくなってから偏見を直したいと思っても、心の奥底にある感情を改めることは知的な理屈の部分を改めるよりはるかに難しいといわれています。
会津は今日まで、戊辰戦争で対立した薩摩や長州に対し因縁を引きずり、多くのタブーができたといえます。
まとめ
・戊辰戦争には三段階あり、
- 『天皇を神輿に担ぎ上げた薩長と徳川の権力争い』
- 『朝敵になった会津藩をはじめとする東北の旧勢力の一掃』
- 『幕府がなくなり困窮した旧幕臣を救うために起きた、新しい生活を求める武力反乱の先駆け』
という3つの要素があること。
- 新選組は幕府からそっぽを向かれつつも、幕府への忠義を貫き通し、鳥羽伏見から函館まで旧幕府軍として戦い消滅したこと
- 自らの意志で武力討幕を決意した西郷隆盛は、弟の死と清貧を好む性質から、一度政府の役人につかず下野したこと
- 箱館戦争は維新によって困窮した『旧幕府の』武士の『最初の』武力反乱、西南戦争もまたやはり維新によって没落を余儀なくされた『旧薩摩藩の』士族の『最後の』武力反乱
これが真実と言えましょう。
明治新政府が慶喜や東北諸藩をはじめとする旧勢力を一掃したことによって、新政府以外に強い勢力はいなくなり、世界からも正式に新政府がこれ以降の政権と認められるようになります。
幸いこの戦争は、諸外国からすると比較的早く終わったため、外国に付け込まれて大混乱するという事態は避けられました。
しかしこれ以降、会津の薩摩・長州への恨みは根深いものとなり、これが現代まで続いています。
いつの時代も変革の時代においては、急激な恵みを受けるものと、既得権の多くを奪われる人間ができるものです。
戊辰戦争という劇薬によって、旧幕府の勢力はほぼなくなり、明治維新の下地ができるのです。