今回解説していくのは大化の改新を推進していった中大兄皇子!
中大兄皇子はのちに天智天皇として古代日本に大きな影響を与えました。
今回はそんな中大兄皇子について
- 中大兄皇子とはどういう人物だったのか?
- 中臣鎌足と蘇我入鹿との関係
- 中大兄皇子の家系図と大海人皇子との関係
- 中大兄皇子が進めていった大化の改新とは?
などを解説していきたいと思います!
中大兄皇子とは?
中大兄皇子とは舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた人物で、古代日本の大改革である大化の改新を実行した人でも知られています。
もしかしたら天皇に即位した時の名前である天智天皇の方が馴染みが深いかもしれませんが、今回は天智天皇が即位する前、中大兄皇子と呼ばれていた頃の解説をしていきたいと思います。
ちなみに、中大兄皇子という名前はなんだかヘンテコな感じがしますが、大兄というのは天皇になれる資格がある皇子という意味。
中大兄というのは「2番目に天皇になることができますよ」ということなんです。
中臣鎌足との関係は?
中大兄皇子の最大の理解者であり、乙巳の変の共謀者となった中臣鎌足。
元々この中臣鎌足という人はこの当時の日本では一二を争うほどの天才だったそうで、中国の軍略書『六韜』を暗記するほどだったとか。
隋から帰国した南淵請安が開いた塾ではその天才ぶりを遺憾なく発揮して蘇我入鹿と共に期待のルーキーとされていたのです。
しかし、世の中が蘇我一族による独裁が行われていくようになると、蘇我入鹿の討伐を決心。
いろんな人にアポを取って計画をどんどん立てていったのですが、最後に行き着いたのが中大兄皇子だったのです。
その出会いというものもかなりドラマチックなところがあり、飛鳥寺で蹴鞠大会が行われている最中、中大兄皇子は靴が脱げてしまったそうで、中臣鎌足はその靴を拾って中大兄皇子に渡したんだとか。
これが縁で中臣鎌足は中大兄皇子に仕えることを決心。
さらに、当時蘇我一族だったのにもかかわらず、蘇我入鹿と敵対していた蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き込み、最終的に乙巳の変を成功させたのでした。
その後は中大兄皇子の下で政治を行なっていき、彼が亡くなる前日にはこれまでの感謝と敬意を込めて中大兄皇子改め天智天皇は鎌足に内大臣と藤原という姓を与えます。
これがいわゆる藤原氏の誕生でして、彼が築き上げた政治的ポジションは息子の藤原不比等へと繋がっていくのでした。
蘇我入鹿との関係は?
中大兄皇子が最終的に打倒することになる蘇我入鹿。
実は、中大兄皇子が乙巳の変を起こすきっかけとなったのは蘇我氏の力を削ぐだけではなく、さらに後継者争いが絡んでいたのです。
上にも書いた通り、中大兄皇子は2番目に天皇になるという資格を持っていました。
しかし、中大兄皇子の兄で天皇の後継者に一番近い人物である古人大兄皇子の存在が中大兄皇子を苦しめる事になります。
古人大兄皇子は舒明天皇の長男で天皇になるにはふさわしい位置にいましたが、それに加えて彼は蘇我入鹿のいとこでもあったんです。
この頃天皇を凌ぐ権力を保持してイケイケであった蘇我氏の血を引いている皇子を天皇に擁立する事で完全に朝廷をコントロールできると確信した蘇我入鹿は是が非でも古人大兄皇子を天皇にするためにさまざまな謀略を働くようになります。
例えば蘇我入鹿はあの聖徳太子の息子であり、豪族からも支持を受けていた山背大兄王を攻め滅ぼします。
これは父である蘇我蝦夷からからブチ切れられたそうなんですが、入鹿からしたら古人大兄皇子を天皇にするための致し方ない犠牲だったのでしょうね。
しかし、このような行為を行っていくと次にターゲットになるのは絶対に中大兄皇子になることは明白となっていきます。
さらに、中大兄皇子の祖父である彦人大兄皇子が蘇我入鹿の祖父である蘇我馬子に暗殺されたということもあって蘇我入鹿を打倒することを計画し始めたのかもしれません。
中大兄皇子の家系図
天智天皇は上にも書いた通り、舒明天皇と皇極天皇の次男として生まれます。
兄には蘇我入鹿のいとこである古人大兄皇子、弟にはのちに中大兄皇子の子供と対立する事になる大海人皇子がいました。
ちなみに、ここから中大兄皇子と弟の大海人皇子の血筋が天皇として即位していく事になります。
ただ、奈良時代では壬申の乱に勝利したこともあってか大海人皇子改め天武天皇の血筋が48代天皇である称徳天皇まで続く事になります。
奈良の大仏を建立した聖武天皇や、大宝律令を制定した文武天皇は大海人皇子の血筋を引いている事になるのですね。
一方の中大兄皇子の方はというと壬申の乱以降はあまりぱっとしなかったそうですが、称徳天皇が亡くなったことによって大海人皇子の家系が断絶すると自然と中大兄皇子の家系の皇族を天皇にしなければいけなくなった事によって、光仁天皇が天皇に即位しました。
そしてその後は息子であり、平安京に遷都した桓武天皇を始め、天智天皇の血筋が代々受け継がれていくことになるのでした。
中大兄皇子の弟の大海人皇子は何者?
中大兄皇子の子供である大友皇子と戦う事になる大海人皇子。
この大海人皇子は中大兄皇子の弟という立場でした。
さて、大海人皇子なんですが、彼はのちに天武天皇として妻の持統天皇とともに政治を行っていく事になるのですが、中大兄皇子との仲は微妙なものだったそうです。
これには実は額田王を巡るドロドロした恋愛関係があったと言われており、中大兄皇子は当時額田王と結婚していた大海人皇子に額田王を差し出せと要求したそうです。
例え皇太子であっても人の妻に手を出すのはどうかと思いますが、大海人皇子はここで拒否したら謀反とされる事になると考え仕方なく額田王を中大兄皇子に差し出したそうです。
これが直接壬申の乱に関わったと言ったらそうでもないかと思いますが、これが一つの要因となったのは間違い無いのかもしれませんね。
大化の改新とは?
中大兄皇子の最大の事業である大化の改新。
しかし、大化の改新自体は別に記事がありますので、ここではどうして中大兄皇子は天皇にならずに皇太子として主導していったのかについて解説していきたいと思います。
大化の改新は乙巳の変から一般的には大宝律令の完成年の701年までの一連の改革のことを指します。
ただ、中大兄皇子は乙巳の変が起こった後直ぐに天皇になることはしませんでした。
それどころか中大兄皇子が天智天皇として即位したのはわずか4年。
これには訳があって当時天皇であった皇極天皇から天皇の位を譲るという話が実はありました。
しかし、ここで天皇に即位してしまうと「あれ?まさかコイツ天皇になりたいがために乙巳の変を起こしたな?」と思われかねません。
そのため中大兄皇子は皇太子という立場でとどまって大化の改新を主導したというわけなんです。
それではまとめに入りたいと思います!
まとめ
まとめです!
- 中大兄皇子は舒明天皇の次男として生まれた
- 中臣鎌足とは蹴鞠をしてからの仲であり、蘇我入鹿とは仲が元々悪かった
- 中大兄皇子と大海人皇子は兄弟でありながらも額田王を巡ってトラブルが起き、それが壬申の乱へと繋がる要因となった
- 大化の改新の時中大兄皇子は天皇とならず皇太子として政治を主導した
最後になりましたが、中大兄皇子が行った大化の改新は後に天武天皇となる大海人皇子に引き継がれていき、最終的には公地公民制と基盤となりました。
中大兄皇子は日本の体制を変えた重要人物だったのですね。