今回解説していくのは古代日本にとって重要な戦となった白村江の戦い!
この事件によって日本は内政の充実を図るようになりました。
今回はそんな白村江の戦いについて
- 白村江の戦いが起こった場所と年号とその覚え方
- 白村江の戦いとはどんな戦だったのか?
- 白村江の戦いと壬申の乱の関係
- 白村江の戦いのことを知れるオススメの本
などについて解説していきたいと思います!
白村江の戦いとは?
「白村江の戦い」とは、663年に行われた日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が朝鮮半島の白村江付近で戦った戦争のことです。
白村江の戦いが起こった当時、朝鮮半島では高句麗と新羅と百済の三国が互いに覇権を求めて戦争を度々行なっており、中国大陸では唐が最盛期を迎えていました。
白村江の戦いの9年前、百済は飢饉や国政の悪化などで衰弱したことによって新羅に攻められて滅亡。
百済は攻められた新羅に復讐と国の復興を目指すために当時百済の王子が人質として送っていた日本に援軍を求めたのでした。
そしてその援軍の依頼に応えた日本が援軍を出して白村江の戦いとなっていったのです。
年号
白村江の戦いが起こったのは663年。
日本では蘇我入鹿を暗殺して大化の改新を推進していき、この年から天皇となった天智天皇が治めていました。
一方の中国ではこの頃から則天武后と呼ばれる女性が台頭していき、唐の政治を牛耳っていたのです。
ちなみに、その後則天武后は中国史上唯一の女帝に即位します。
朝鮮半島では新羅がどんどん百済の領地を攻めていき、朝鮮半島南部の勢力基盤を確固たるものとしていました。
場所
白村江の戦いが起こった白村江は今では錦江と呼ばれており、韓国においては3番目に大きい河川となっています。
この河川は昔から百済にとっては大事な交通水路であり、この河川を使い貿易や経済が回っていました。
そのため、白村江は百済にとったら生命線の河川といっても過言ではなかったのです。
地図
白村江の戦いは黄海と呼ばれる海で朝鮮半島からちょうど真ん中あたりで起きました。
当時、百済は朝鮮半島南西部を治めていた国でして、白村江はそんな百済の領地のちょうど中部あたりに存在していました。
年号の語呂合わせの覚え方
歴史を学ぶ上で重要なことの一つに、年号を覚えるというものがあります。
しかし、年号を覚えるというだけではダメなんです。
年号を覚えるだけではなく、この事件や戦争によって一体どんな結末や結果を迎えたのかをきっちりと学ばなければなりません。
それを踏まえて、白村江の戦いの年号の覚え方を見ていきましょう。
「む!(6)無残(63)に唐に敗れた白村江の戦い」
唐には惨敗してしまいました。
「むむ(66)、白村江の戦いの戦いで任那(3)から撤退」
この白村江の戦いによって、元々日本の領地であった任那から撤退しなければいけなくなりました。
「唐には無論惨(663)敗した白村江の戦い」
唐と戦って勝てるわけなかったのでしょう。
白村江の戦いと壬申の乱の関係は?
白村江の戦いで壊滅的な被害を受けてしまった日本。
斉明天皇の跡を継いだ天智天皇は、この白村江の戦いによって、唐と新羅が日本に攻めてくると焦り始めます。
天智天皇は唐と新羅の進軍をなんとか防ぐために日本の国防を強化。
九州に朝廷の出先機関である太宰府を建造して、その周りに朝鮮式の水城と山城を建築。
元々あった防衛施設も強固なものとしてその太宰府周辺には防人と呼ばれている全国からかき集めた兵士たちを置いて侵攻に備えます。
また、朝廷が置かれている都も遷都を決定。
海から近く攻められやすい難波宮から大津に遷都を行い、大津の地にて日本初の戸籍である戸籍を作成して近江令という法律も整えました。
このように天智天皇は唐の侵攻を恐れるが故に日本を唐と同じような軍事力を育成しようとしたのです。
しかし、急激な内政改革や国防の強化はこれまで日本の国防を任されていた豪族からしたら自身の立場を失うかもしれないという危機感に陥らせます。
また、天智天皇も改革を行う矢先に亡くなってしまいました。
これによって朝廷では天智天皇の息子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子の間で後継者争いが勃発。
近畿地方はもちろん、中部地方にも影響力が及んだ古代日本最大の内乱である壬申の乱へと繋がっていきました。
このように白村江の戦いの敗戦による焦りが壬申の乱という最大級の内乱へと繋がっていったのです。
その後壬申の乱は大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位。
日本の改革はこの天武天皇とその奥さんである持統天皇によって行われるようになったのでした。
白村江の戦いの真実を考察
白村江の戦いは、唐・新羅連合軍の水軍によって日本軍はあっけなく敗れてしまい、一説によると1万人の死者を叩き出すほどの壊滅な被害が出たとされています。
しかし、じっくり考えてみると日本という国は昔から中国の勢力の強大さを知っていたのではないかとは思わないでしょうか?
日本は確かにこれまで対外戦争をしたことはほとんどありません。
でも、日本は遣隋使の頃から中国に対して使節を送っており、中国の文化を吸収していました。
そう考えると日本は唐は強いということを知っていたということがわかります。
ですが、もし知っていたのであれば日本が百済からの援軍依頼を受けたという理由で派兵したということはおかしく感じてしまいますよね?
もしかしたら天智天皇は、
- 九州に存在していた豪族たちを無理矢理徴兵して弱体化を目指した
- 白村江の戦いの敗北を口実として天智天皇が皇太子時代から行なっていた大化の改新の事業を進めたかった
という思惑があったということもあり得ると思います。
でも白村江の戦いが起こったのは1350年前。
この戦いの記述が少ない現状では開戦理由の謎は闇の中となっています。
白村江の戦いを描く本
白村江の戦いは日本にとったら重要な転換点の一つだったため、それを表した本が多数出版されています。
その中でも私がオススメしたいのが三田誠広さんが書いた「白村江の戦い 天智天皇の野望」です。
この本には天智天皇がどのようにして白村江の戦いに挑んだのかということを唐の資料をベースとして自身の考察を交えながら書き上げています。
白村江の戦いの当時の天智天皇の様子を知りたいのであれば一回読んでみてはいかがでしょうか?
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめに入りたいと思います!
- ・白村江の戦いとは633年に日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の間で起こった戦い
- ・白村江の戦いの敗戦によって日本は内政の充実を図ろうと太宰府の建築や防人の創始など唐から攻められないように侵攻に備えていった。
- ・しかし、白村江の戦いで内政を急ぎすぎた結果天智天皇の死後大海人皇子と大友皇子の間で壬申の乱が起こってしまった
- ・白村江の戦いは豪族の権力の削ごうしたという説がある
最後になりましたが、この白村江の戦いは記録にちゃんと残っている中では初めての敗北を喫した戦争でありました。
この白村江の戦いの教訓を生かして日本は新しい時代を迎えていくことになるのです。