今回ご紹介するのは、鳥羽伏見の戦いです。
王政復古の大号令によって幕府が廃止され、明治新政府は天皇を中心とした新たな政治体制を確立したかに見えました。
しかし、最後の将軍徳川慶喜はなおも所領を維持しており、また慶喜を奉じた旧幕府勢力も根強く、新政府は彼らを従えきれずにいたのです。
江戸幕府の完全な解体を目的に、新政府軍は最後の戦い・戊辰戦争に臨みます。
鳥羽伏見の戦いは、そんな戊辰戦争の初戦です。
- 鳥羽伏見の戦いはどのように開戦したのか。
- 徳川慶喜はまだ勝ち目があったのに逃走した?
- 勝敗を分けたのは裏切り行為があったから?
- その時、新選組はどうしていたのか。
については、特に詳しく見ていこうと思います!
目次
鳥羽伏見の戦いとは?
鳥羽伏見の戦いは、1868年の1月に起きた、新政府軍と旧幕府軍との戦いです。
王政復古の大号令により、幕府は廃止され、徳川慶喜は辞官納地(官位と所領を返上すること)することとなりました。
しかし慶喜は、この決定を受け入れつつも、家臣たちがこの決定を不服と感じて暴動を起こすことを恐れ、返答をしないままにします。
そして新政府に従うという意思を示すために、慶喜は大阪城に退去するのですが、その後彼は一時音信不通となってしまいました。
新政府側である薩摩藩などは、旧幕府軍に対して挑発行為を行っており、これがエスカレートしたことで旧幕府軍は新政府と交戦する風潮が高まっていったのです。
そしていよいよ旧幕府軍が進軍し、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と激突することとなりました。
この鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍のほうが1万人ほど多くの兵を有していたのですが、4日間の戦いの末に勝利したのは、新政府側でした。
この戦いにより、江戸幕府の完全な解体をかけた、戊辰戦争が幕を開けることとなったのです。
次に、鳥羽伏見の戦いが行われた場所と、現在の様子について見ていきます!
鳥羽伏見の戦いの場所
この戦いが行われたのは、山城国の鳥羽・伏見であり、ここは現在の京都市南区と伏見区にあたります。
地図
鳥羽伏見の戦いの跡地
鳥羽伏見の戦いの跡地としてまず紹介するのは、戦いの発端となった場所です。
鴨川にかかる小枝橋において両軍がにらみ合いとなったのであり、この地には地碑が建っています。
次は、激戦地となった鳥羽離宮跡公園です。
ここにはもともと、平安時代後期に白河上皇が建てた離宮がありました。
鳥羽は院政期に経済的にも政治的にも発展を遂げましたが、南北朝時代の戦火により多くの建物が焼失してしまい、荒廃していったという経緯があります。
鳥羽伏見の戦いの戦いの際には、ここから薩摩軍が大砲を発砲したことをきっかけとして、激戦となりました。
ここにある南殿跡が国の史跡に指定されたため、史跡公園として整備されました。
最後に取り上げるのは、寺田屋です。
寺田屋と言えば、寺田屋騒動や坂本龍馬襲撃事件の舞台となった場所ですが、鳥羽伏見の戦いはこの周辺でも行われました。
この戦いの際に寺田屋の建物は焼失しますが、その後再建されて、現在も宿泊することができるようです。
この近辺は観光地として人気のスポットのひとつのようですよ!
次の章では、小枝橋でにらみ合っていた両軍が、どのように戦闘を開始したのか、その経緯について見ていきます!
鳥羽伏見の戦いは滝川具挙の発砲がきっかけ?
それでは、どのようにしてこの戦いが開始されたのかについて、その詳細を見ていきましょう。
前の章で戦跡としてご紹介した小枝橋付近で、両軍がにらみ合う場面から見ていきます。
進行を許可するよう求める幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都で許可が下りるまで待つよう伝えます。
両軍はこの問答を繰り返しながらこの場所で対峙し続けていました。
幕府軍の先鋒を率いていたのは、第一次長州征討で参謀を務めた大目付・滝川具挙です。
彼の家臣はこの両軍のせめぎあいのなかを騎馬をもって駆け抜けようとしましたが、失敗しました。
そして我慢の限界を迎えた幕府軍は、強引に押し通るという旨を相手に通達しますが、薩摩藩側はまたも拒否します。
その時、薩摩藩側から発砲をされました。
幕府軍側はまだ戦闘を開始する準備を整えていなかったため混乱に陥り、滝川は乗馬が発砲に驚いて暴走、結果前線から退いて敗走することとなりました。
これが、この戦いの戦端を開くこととなったのです。
次の章では、この戦いの勝敗を分けたポイントの一つとも言える、徳川慶喜の逃走の真相に迫ります!
勝敗は慶喜の逃走によって決まった?
幕府軍には十分な兵力があり、武器もそれほど新政府軍に劣っていたわけではないと言われています。
それでもこの戦いに敗れた理由の一つに、徳川慶喜の逃走があります。
彼は、この鳥羽伏見の戦いにおいて形成が不利になったと見ると、側近や老中などとともに海路で江戸へと退却したのです!
しかも、戦地では慶喜の退却は伝えられなかったようです。
朝廷から慶喜の追討令が正式に出されると、慶喜は朝廷への恭順を主張して自ら謹慎することとし、事態は収束に向かうのでした。
慶喜が逃走したのは、慶喜の政権があくまでも朝廷あってこそであり、その朝廷を敵に回してまで交戦する覚悟はなかったため、と言われています。
もしこの逃走がなかったなら、この戦いはもっと激しさを増していたのかもしれませんね。
次の章では、勝敗を分けたもう一つのポイントである、幕府軍側で起きた裏切り行為について見ていきます!
幕府軍を裏切って寝返った者がいた?
鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗北を決めた要因は、もう一つあります。
それは、淀藩の裏切りです。
淀藩は伏見にあった藩であり、その藩主は当時現職の老中であった稲葉正邦でした。
幕府軍は敗走していたため、この淀藩を頼って戦況の立て直しをしようと考えたのです。
しかし、いざ幕府軍が淀城にたどり着くと、なんと淀藩はその入場を拒絶したのです!
現職老中の援助を得られなかった幕府軍のダメージは相当大きかったはずです。
結局幕府軍は大阪城へ逃げ帰ることとなってしまいました。
ちなみに、この時淀藩主の正邦は江戸にいたため、幕府軍の入城拒否を直接指示したわけではなかったようです。
次に、鳥羽伏見の戦いにおける、新選組の動きについて見ていきます。
鳥羽伏見の戦いで新選組は何をしたのか?
この戦いにおいてもう一つ注目しておくべきことは、新選組の動きです。
以前より倒幕派の襲撃事件などで活躍していた新選組は、この鳥羽伏見の戦いでも幕府軍側に参戦していました。
新選組は土方歳三のもとで活躍を見せていましたが、苦戦を強いられていました。
特に、淀における戦いでは隊士のおよそ3分の1が戦死したと言われています。
その後幕府の軍艦で江戸へ撤退するのですが、今後の戦いでの幕府軍の勝ち目のなさを悟った隊士が多く脱走したため、新選組そのものの戦力はダウンすることとなりました。
次に、鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争の違いについて見ていきます。
鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争の違いは?
鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の初戦のことです。
新政府軍と幕府軍との戦いは、このあと甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、北越戦争、東北戦争、そして箱館戦争と続いていくのですが、この総称を戊辰戦争と言います。
ちなみに、「戊辰戦争」の名称は、この一連の戦いが行われた慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることから来ています。
まとめ
それでは、おさらいの意味も込めて、鳥羽伏見の戦いについてもう一度振り返ってみようと思います。
鳥羽伏見の戦いは、1868年1月に起きた、新政府軍と旧幕府軍との戦いです。
小枝橋で両軍が対峙する形となっていたところを、薩摩藩側が発砲したことから戦端が開かれました。
4日間の戦いの末新政府軍が勝利をおさめ、箱館戦争まで続く、幕府の完全解体をかけた戊辰戦争が始まりました。
この戦いの勝敗を分けたキーポイントは、主に2つありました。
一つは、この戦いの最中、徳川慶喜はまだ兵力が十分あるにもかかわらず江戸へ逃走し、自ら謹慎して事態を収束させようとしたことです。
そしてもう一つは、藩主が現職の老中であった淀藩が、幕府軍を裏切り、幕府藩の淀城への入城を拒んだことでした。
また、この戦いでは幕府軍側に新選組も参戦しましたが、苦戦を強いられ、隊士の逃亡が相次いだことでその力は徐々に弱まっていきました。
鳥羽伏見の戦いの跡地としては、開戦場所となった小枝橋や、伏見にある寺田屋などがありましたね。
機会があれば是非一度訪れてみてください!