今回は、1873年に明治政府が行なった改革『地租改正』について解説していきたいと思います!
・地租改正とは?
・地租改正の目的や条例について
・地租改正時の地価の決め方は?
・なぜ地租改正反対一揆が起こったのか?
・地租改正と農地改革の違いは?
など地租改正について詳しく解説していきますね!
まずは、地租改正とは?について解説していきます。
地租改正とは?
地租改正とは1873年(明治6年)に明治政府が行なった租税制度改革のことです。
明治になっても、政府の財源の多くは農民が納める米に頼っていました。
ところが、この租税は地方によって税率が異なったり、納めるものが米だったので、年によって収穫に差があり、政府の収入は不安定でした。
そこで政府は国庫収入安定のため、土地の所有者に「地券(所有者の名前・面積・地価・地租額を記入した証書)」を交付して土地の所有権を認め、地価の3%を貨幣(現金)で納めさせるように租税制度を変更していきました。
この改革により、日本に初めて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を持っています。
次は、地租改正の目的について説明していきます。
目的
地租改正の目的は、政府が全国で同じ基準で、しかも貨幣(現金)で税を集めることで安定した収入を確保するために行われました。
では政府はなぜ現金にこだわったのでしょう。
一つ目は、納められるものが米だと、豊作だと米の価値が下がるし、凶作だと年貢が取れないという事態が起こり、現金化するまで予算を組む事が難しいという事。
二つ目は、年貢が不公平な課税であったという事。
具体的に言うと、江戸時代の税は農地と農民にかけられており、農作物を生み出さない年は無税だったのです。
そして、職人や商人は、決められたわずかな税を納めるだけで、農民よりもはるか負担が軽かったのです。
地租改正後は、今まで課税されてこなかった市街地でも地券を発行し、課税の準備が整えられました。
三つ目は、貿易では現金(特に金や銀)が必要だったという事。
外国との貿易では、当時の世界共通の通貨である金貨や銀貨が必要でした。
米や農作物では貿易の支払いはできなかったからです。
このような理由から米から現金へ税の払い方が変わったのです。
次は地租改正の条例について解説していきます。
条例
政府は地券を発行して土地所有者をはっきりさせた上で、より具体的な改革を行いました。
それが地租改正条例です。
この地租改正条例の内容は3つです。
①課税の基準を地価とする
②地租を地価の3%にし、現金で納めさせる
③税を納めるのは地券を持っている人と決める
次は、地租改正時の地価の決め方は?について説明していきますね。
地租改正時の地価の決め方は?
農地の地価は田畑面積や収穫高、平均米価格などから決められました。
政府は当初、検知が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採りました。
すなわち、農民自らが「地押丈量」を行います。
「地押」は、田畑・屋敷の等級・収穫高を従来のままとすることです。
簡単に言えば、米に換算した収穫量は、そのまま据え置くということです。
次に、「丈量」は測量し直すということです。
そのため、「地押丈量」は米に換算した田畑・屋敷の収穫量は変えないで、面積だけを測量しなおすということになります。
次に、地租の決め方ですが、下記の算出式で決めました。
[地価]=Y、[収穫量]=X、[種肥料]=0.15X、[地租]=0.03Y、[村入料]=0.01Y、[利子率]=0.06。
Y=[X−0.15X−(0.03Y+0.01Y)]÷0.06
上記で算出されたYを簡単に言えば、年間の租収益の8.5倍が地価になるそうです。
そして、地租は年間租収穫益の25.5%、村入用(地方税)を入れると34%になるそうです。
算出方法は以上ですが、この算出式の出所は、地租3%で江戸時代の年貢収入を下回らないようにしたものです。
次は、なぜ地租改正反対一揆が起こったのか?について解説していきますね。
なぜ地租改正反対一揆が起こったのか?
地租改正により政府の財政収入は安定しましたが、これまでより収入が減らないように地価を高めに定めたので江戸時代より税率は高くなり、農民の負担は重くなってしまいました。
米を商人に買い叩かれ、村人が共同で利用していた入会地は官有地とされ、江戸時代と同じく米で小作料を納めていた小作人は更に苦しむ結果となったのです。
そして、小作人たちの不満がどんどん膨れていき、日本各地で大規模な暴動が頻発していきます。
その中でも有名な地租改正反対一揆がありました。
「伊勢暴動」と「ワッパ騒動」です。
伊勢暴動での処分者は5万人と言われていますので、この数字を見てもこの反対一揆の規模が大きかったことが分かるのではないでしょうか。
ワッパ騒動は参加者1万数千人とされていて、1873年末から1880年末まで7年もの長い間繰り広げられた騒動で、百姓一揆から自由民権運動へと発展しています。
このように、各地で地租改正反対一揆が起こり、大久保利通率いる明治政府は1877年に地租を地価の3%から⒉5%に引き下げました。
ワッパ騒動では雑税4項目の廃止、村費用の一時取り立ての中止を勝ち取っています。
では次に、地租改正と農地改革の違いを解説していきますね。
地租改正と農地改革の違いは?
地租改正は、明治初期の政策で江戸時代までの土地制度を近代化し、土地所有権を明確化し、土地所有者に地租(土地にかかる税金)を負担させるために行った政策です。
地租改正により、小作農化や地主への土地集積を進行させ、近代地主制の成立へと繋がりました。
農地改革は、戦後の政策でアメリカの指示で行ったものです。
地主の所有していた小作地などを国が安く買い上げて小作人に下げ渡した改革で、小作農を自作農化することを目的とした政策です。
簡単にすると、地租改正→小作農化、地主の土地集積進行→地主の力アップ
農地改革→自作農化、地主の土地を小作人へ→地主の力ダウン
という違いがあります。
それでは、最後に地租改正についてまとめていきますね。
まとめ
地租改正について簡単にまとめます。
・地租改正とは、1873年(明治6年)に制定された地租改正条例によって実施された土地制度・課税制度のことである
・地租改正の目的は、明治政府が土地所有者から全国で同じ基準で、しかも貨幣(現金)で税を集めることで安定した収入を確保するために行われた
・地租改正条例の内容は次の3つで、 ①課税の基準を地価とする ②地租を地価の3%にし、現金で納めさせる ③税を納めるのは地券を持っている人と決める
・地租改正時の地価の決め方は、当初は農民自らの自己申告制を採り、農地の地価は田畑面積や収穫高、平均米価格などから決めらた
・なぜ地租改正反対一揆が起きたかというと、地租を地価の3%にし、江戸時代の年貢収入を下回らないようにしたため、江戸時代より税率は高くなり農民の負担が重くなってしまったから
・有名な地租改正反対一揆には伊勢暴動やワッパ騒動などがあり、これにより明治政府は地租を地価の3%から⒉5%に引き下げたり、雑税4項目の廃止、村費用の一時取り立ての中止を決めた
・地租改正と農地改革の違いは、
地租改正→小作農化、地主の土地集積進行→地主の力アップ(明時初期)
農地改革→自作農化、地主の土地を小作人へ→地主の力ダウン(戦後)
まとめると少しわかりやすくなりましたでしょうか。
地租改正によって、日本で初めて「国民が土地を所有する」という考え方が生まれました。
そして、土地は「天皇の所有物で、国民はそれを借りている」という公地公民思想が崩れ、土地が個人の財産になり、売買や担保に入れたり、土地に流動性が生まれていくことになります。
また、土地をたくさん持っている地主はたくさん納税するため、参政権を手にするようになり、地主の力をどんどん増大させていく様な側面を持つ改革となったのです。