今回ご紹介するのは、廃藩置県です。
版籍奉還によって藩の土地と人民が明治政府のもとへ渡ってからも、藩は存続しており、旧藩主は知藩事として地方統治を行っていました。
明治政府は地方を統括しきれず、中央集権国家と変貌できずにいたのです。
そこで政府にとって、知藩事たちの反発を考慮しつつ、藩を廃止するという大きな決断をする時が来ます。
- 廃藩置県が行われた背景とは?
- 廃藩置県で県名や県庁所在地名はどのように決められた?
- 旧大名層は反抗しなかったのか?
今回はこうしたポイントを特に詳しく見ていくので、是非ご注目ください。
目次
廃藩置県とは?
廃藩置県とは、1871年に行われた行政改革で、藩を廃止して地方統治を府と県に一元化したものです。
1868年の王政復古の大号令では、中央政府が江戸幕府から朝廷に移っただけであり、全国の藩は藩主の下で統治されていました。
その翌年の版籍奉還により、藩の土地と人民は明治政府のもとへ返還されることとなります。
ですが、藩主はなおも知藩事として藩の統治権を持っており、中央政府の管轄外に置かれていたのです。
「廃藩置県」と聞くと、藩が廃止されたのと同時に府と県が置かれた、と思われがちです。
しかし、実は府と県というのは、廃藩置県の前に一部置かれていたのです。
それが、1868年から行われた「府藩県三治制」です。
府と県は明治政府の直轄であり、それぞれ知府事、知県事が派遣されて行政を執り行っていました。
しかし、この制度にはいくつか問題があったのです。
まず、府と県は全国の4分の1程度であり、明治政府は財源の確保に苦しみます。
また、藩と府県の管轄区域は複雑に入り組んでいて非効率でもあり、軍は各藩の軍隊からなされていたため統率がとれていませんでした。
藩としても財政事情が厳しいことなどを理由に、正式に廃藩置県が行われるより前に、自ら廃藩を求める藩も相次ぎました。
こうした事情を背景として、
- 西郷隆盛
- 大久保利通
- 井上馨
- 山県有朋
といった薩摩・長州の実力者たちが廃藩置県を主導し、1871年に見事に実行に移されました。
これにより藩が廃止されたので、旧来藩であった土地もすべて中央政府の直轄地となったわけです。
次に、廃藩置県の目的について見ていきます。
目的
廃藩置県の目的の一つは、前の章で少し触れた、府藩県三治制の非効率さに関わっています。
大隈重信は、新国家の建設に必要なものは「軍事」「教育」「司法」「財政」の確立であるとしました。
この実現のためには、府・藩・県が並立した非効率な状況は改善しなければならないとしたのです。
次に、廃藩置県の行われた時期、および廃藩置県前後の地図をご紹介します!
年号
廃藩置県が行われたのは、1871(明治4)年です。
廃藩置県前の地図
次にあげる地図は江戸時代中期のものですが、廃藩置県前もこのように複雑な領地の構成でした。
廃藩置県後の地図
廃藩置県により、藩はそのまま県に置き換えられたため、当初は3府302県で構成されていました。
今回は、その数か月後に3府72県に統合された、第1次府県統合後の地図をご紹介します。
次の章では、廃藩置県で決められた県名の由来について見ていきます。
廃藩置県で決められた各都道府県の県名の由来
廃藩置県において、新たに作られた県の名称はどのように付けられたのでしょうか。
明治期から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・宮武外骨の著作『府藩縣制史』から探ってみたいと思います。
その著作によれば、各都道府県の名称は明治政府の賞罰により県名が決められたそうです。
明治政府に対して早くから協力の姿勢を見せ、王政復古に大きく貢献したとされた藩は、県となってもその名称の引き継ぎが認められました。
鹿児島藩や山口藩、佐賀藩などがそれにあたります。
その一方、明治政府に対して当初刃向かった藩や、なかなか帰順しなかった藩などは、藩の名称を継承せず、郡の名称や山や川の名称を付けたとされています。
名古屋藩、水戸藩、金沢藩が、のちに愛知県、茨城県、石川県と改称された事例がこれにあたりますね。
次に、県名と県庁所在地名が異なっている県がある理由について見ていきます。
県名と県庁所在地が違う県には理由がある?
前の章で取り上げた宮武外骨の説から、県名と県庁所在地名の関係に関する説も取り上げられるようになりました。
それは、戊辰戦争で新政府軍に味方した藩とそうでない藩とで区別した、というものです。
つまり、
- 味方した藩は、県名と県庁所在地名を同じにした
- そうでない藩は、郡などの名称を県名として県庁所在地名を藩とした
ということです。
前の章でご紹介した鹿児島県、山口県、佐賀県などは、確かに県名と県庁所在地名が同じですし、愛知県、茨城県、石川県の県庁所在地はそれぞれ名古屋、水戸、金沢ですね。
もちろん、この説には反論もあります。
例えば、宇和島藩は藩主・伊達宗城のもとで幕末期に大きな存在感を放っていました。
戊辰戦争時、宗城は新政府軍の参謀を務めていたほどでしたが、宇和島の名称は県名としては継続されませんでした。
また、仙台県が宮城県に改称されたのは、藩の時代の古い習慣を残さないためであったとも言われています。
明治政府が賞罰に基づいて名前を決めた、という説は本当だと断定はできません。
ですが、当時の人々が新たな時代に向けて気持ちを改めたいという思いがあったのは確かなようですね。
次の章では、沖縄が琉球藩として日本の領土となった事情を探っていきます!
なぜ沖縄は琉球藩として日本の領地にされたのか!?
沖縄は、近世まで長らく琉球王国として、中国との貿易などで栄えていました。
薩摩藩の島津氏の軍事制服により琉球王国は薩摩藩に服属していましたが、王国そのものは独立しており、中国との貿易も継続していました。
この琉球王国は、中国と冊封関係(中国皇帝である「天子」との名目的な君臣関係)にあり、中国を宗主国としていました。
明治政府は、琉球王国が日本に服属しつつ中国を宗主国としていたことを問題視し、明確な領土概念を作るため、琉球を支配下に入れることを画策するようになるのです。
廃藩置県の翌年に、あえて琉球王国を琉球「藩」としたのは、のちに完全に日本の領土とするための布石を打つためでした。
実際、当初琉球側は服属する対象が薩摩藩から明治政府に変わっただけであるという認識が多かったようです。
また、当時の琉球国王を「藩王」として残したのは、明治政府の中国に対する配慮でした。
そして、1879年にこの琉球藩は廃止されて沖縄県となり、琉球は完全に日本の支配を受けることとなるのです。
次に、旧大名たちが反抗したのかどうかについて見ていこうと思います!
大名たちは反抗しなかったのか?
それでは、廃藩置県により自らの支配地を奪われるという形となった旧大名たちは、反抗しなかったのでしょうか。
実は、ほとんどの旧大名たちは、反抗しなかったのです!
それは、当時の時代背景と、明治政府の工夫のためです。
まず、戊辰戦争の影響を受けて、諸藩は多額の債務を負っていました。
百姓一揆も頻発しており、こうしたことが藩主の頭をもたげていたのです。
そのため、廃藩置県によりその土地を治めさせない処分というのは、そもそもそれほどの反発を買うものではなかったのです。
また、明治政府は旧藩主家に対し旧藩の10分の1の収入を当てるという、この上ない厚遇を与えました。
さらに、版籍奉還の際、旧藩主たちは知藩事への任命権を自ら天皇に返還していたため、ここで反抗の意を示すことが理論上困難となっていた、という事情もあります。
ところで、旧大名層のなかでただ一人、廃藩置県に対してあからさまに反対の意を示した人物がいたことをご存知ですか?
それは、薩摩藩の島津久光です。
彼は幕末から長きにわたって薩摩藩の事実上の最高権力者として君臨し続けていました。
明治政府が樹立したのちも、政府に対する反発を続けていたのです。
廃藩置県に際しては、反抗の思いから自邸で一晩中花火を打ち上げていたと言います。
彼は生涯帯刀・和装を辞めなかったと言われているんですよ。
次の章では、廃藩置県による影響を見ていきます。
廃藩置県による影響は?
廃藩置県そのものはスムーズに遂行されましたが、明治政府は新たな問題にぶつかることとなります。
それは、旧藩の債務を新政府が請け負うことによる問題です。
旧大名を懐柔するためもあって、藩の債務を政府は肩代わりする必要がありました。
政府は各藩で使われていた藩札を回収し、全国統一の貨幣の鋳造を進め、また債務を時期によって分類することで計画的に償還していくこととなりました。
全ての公債が償還されたのは1921年のことでした。
また、この際に貸し手の商人たちは打撃を受けたため、大名貸し商人の多かった大阪は日本経済の中心としての地位を失うこととなりました。
まとめ
それでは、廃藩置県についてもう一度振り返ってみましょう。
廃藩置県は、1871年に旧来の藩を廃止して地方統治を府と県に一元化した政策です。
西郷隆盛や大久保利通といった薩摩・長州の両藩のよりこの政策が推し進められた背景には、府・藩・県が併置されていた状況が非効率であったという事実がありました。
また、廃藩置県の際に付けられた県名や県庁所在地名は、明治政府に対して早くから協力体制を見せたかそうでないか、という観点から決められたという説がありましたね。
琉球藩は、明治政府が琉球を段階的に日本の支配下に置くために、廃藩置県の翌年に設置されました。
廃藩置県の際に旧大名層のほとんど反抗しなかったことには、彼ら自身が藩の統治に苦慮していたこと、明治政府が彼らを手厚く遇したことが理由として挙げられます。
この際、旧藩の債務は明治政府が請け負ったので、その返済に数十年をかけることとなりました。
薩長土肥出身の実力者たちが続けていく、今後の改革の数々にも、是非ご注目ください!