今回解説していくのは今でも日本史のヒーローとしても知られている源義経!
彼の業績や悲劇的な死から『判官贔屓』の由来となった人物ですが、今回はそんな彼について
- チンギスハーンと義経の関係
- 義経の伝説について
- 義経の功績と年表について
- 義経が戦った3つの戦い
- 義経を題材にした作品について
などなど義経について詳しく解説していきます!
目次
源義経はチンギスハンと同一人物?真相について考察
日本ではよくドラマなどの題材になって知名度も抜群である源義経。
しかし、そんな義経にはあのモンゴル帝国の初代皇帝となったチンギスハンと同一人物であったという説があるのです。
しかし、実はこの説は事実無根。
たしかに、チンギスハンは前半生の記録がほとんどなく、江戸時代初期には『大日本史』を記した水戸光圀が蝦夷地に探検隊を派遣するなどこの説を支持している人がある程度いましたが、結局はこの説はことごとく否定されてしまいまはトンデモ説の一つになっています。
義経の家紋が証拠?
この義経=チンギスハン説の研究家であった小谷部全一郎はシベリア出兵の時に笹竜胆をつけた武者がいたという記録を残しています。
そのため、義経の一行がこのシベリア出兵ののちに移住したという根拠となっているのです。
でも実はこれは事実無根である可能性が非常に高く、笹竜胆は義経亡き後で多用されています。
さらに極め付けには実は源氏である源義経は笹竜胆を使ったことはありません。
(笹竜胆は公家の村上・宇多源氏の家紋であり、清和源氏の義経や頼朝が使うのはおかしい上に義経は基本的に白旗を使っていました)
そのため、モンゴルで笹竜胆の紋章の家があったとしても、この説は俗説となっています。
源義経の伝説や逸話まとめ
義経=チンギスハン説はただのこじつけだったのですが、そのほかにも義経にはさまざまな伝説が残されていました。
次はそんな義経の伝説について見ていきましょう。
弁慶と牛若丸の伝説
源義経の最強の相方として今も義経の隣に描かれることが多い武蔵坊弁慶。
武蔵坊弁慶は元々紀州生まれの比叡山延暦寺の僧侶だったそうですが、この頃横行していた僧兵の強訴に度々参加しておかげで比叡山から追放。
いつしか五条大橋にて道行く人を襲って太刀を手に入れていき、999本の太刀をかき集めるまでになったそうだとか。
しかし、記念すべき1000本目の相手となったのが若き頃の源義経(牛若丸)。
源義経の華麗な動きに翻弄されてしまい、弁慶は敗北。
弁慶は降参して義経のお供として働くことになったのでした。
義経北行伝説
義経がチンギスハンという説のきっかけとなったのがこの義経による北行伝説。
義経は平泉にて自害されたとされていますが、実は討ち取られた首は偽物でその後蝦夷地(北海道)、樺太、そしてシベリア地方にまで逃げ延びたとされているのです。
ちなみに、この説は江戸時代前期までは本気で信じられており、蝦夷地に探検隊を派遣した水戸光圀や、新井白石などが著書で取り上げたりしています。
八艘飛び伝説
義経の伝説の一つに八艘飛びの伝説があります。
この説の根拠となったのが源平の争いを描いた平家物語。
この中には「平教経は義経に最後の勝負を挑もうと迫ってきたら、義経は小長刀を小脇に掻きこんだまま、二丈ばかり(約6メートル)彼方の船に飛び移った。教経が追いかけると義経はさらに飛び逃れ船八艘を追いまわしたがついに捕えることができなかった」とされています。
しかし、よく考えてみてください。
この頃の鎧兜の総重量は30キロだったそうで火事場の馬鹿力といってもこの重量で6メートルなんて飛べるはずがありません。
参考:走り幅跳びの世界記録(2019年現在)は8メートル95センチ
まぁ、船を渡って逃げたというのは考えられますが、八艘跳びは誇張が過ぎますね。
源義経の愛妾「静御前」は実は存在しなかった?
静御前といえば白拍子として京都で活躍して、義経の妾にもなった女性なんですが、実はこの静御前はいなかったのではないかと言われているのです。
静御前がいたとされる史料の一つに吾妻鏡があるのですが、実はそれ以外の史料には静御前の記述がなく、もしかしたら吾妻鏡によって作られた架空の人物でないかという説があるのです。
源義経について
さて、ここまでは義経にまつわる色々な伝説を見ていきましたが、義経を表す言葉の代表的なものに『判官贔屓』という慣用句があります。
これは要するに義経のような悲劇の主人公を支持するように、弱い人を贔屓目に見ることを指すのですが、義経はどのようにして悲劇の主人公となってしまったのでしょうか?
功績と年表
源義経は1159年に河内源氏のリーダーであった源義朝の九男として生まれました。
しかし、かわいそうなことに生まれた年に平治の乱が勃発。
平治の乱によって父であった義朝は尾張国で暗殺。
母であった常盤御前も清盛に降るなど身内がどんどん殺害、捕縛される中義経は鞍馬寺に匿われることになりました。
義経自身は生まれた時による出来事でしたので、あまり父について覚えていませんでしたが、父が平清盛によって暗殺されたことを知ると平氏打倒を決意。
元服して河内源氏の通名である義の字と河内源氏の祖である源経基の経をとって義経と名乗ることになりました。
その後義経は平泉で過ごした後、以仁王の反乱が起こり兄である頼朝が挙兵すると直ちに頼朝と面会。
源義仲との争いに勝利して京都を制圧すると平氏との戦いを始めていき、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを経て平氏を滅亡に追い込みその名は全国に知られることに。
でも壇ノ浦の戦いの後に義経が後白河上皇から勝手に官位をもらっていたことが頼朝のところに入ると義経は鎌倉に入ることを許されなくなり、仕方なく京都に帰還。
両者の間で亀裂が生じてしまい、ついには頼朝による義経追討が開始。
義経は京都から逃げ、北陸から奥州へと逃げのび第二の故郷である平泉に逃げ込むことに成功。
しかし、第一の理解者であった藤原秀衡が1187年に亡くなると、後を継いだ泰衡は突如として義経がいた衣川の屋敷を襲撃され、多勢に無勢の義経はなすすべもなく義経は自害。
こうして平氏を滅亡させた大ヒーローは悲劇的な死によって人生の幕を閉じたのでした。
1156年 源義朝の九男として京都に生まれる
1165年 鞍馬寺に入れられる
1174年 鞍馬山を出て平泉に行く
1180年 黄瀬川で頼朝と対面する
1184年 宇治川の戦いで木曽義仲を破る。一の谷の戦い
1185年 屋島の戦いで平氏を破る
1187年 頼朝と対立して平泉にくだる
1189年 藤原泰衡に裏切られ衣川で自害する
性格
源義経の性格を表すとしたら『手段を選ばない人』そんな人だったのではないかと思います。
義経は、
- 壇ノ浦の戦いにて普段なら不文律でやることはなかった船の水夫を弓で殺す
- 義経と頼朝が対立しそうになったら後白河上皇の下について頼朝の追討命令を出させる
など本当に手段を選ばない場面が多数現れています。
しかし、彼のこのような行動が源平の合戦の勝利に繋がっていったのでしょうね。
身長
義経の身長は残っている鎧兜を見ると大体150センチだったのではないかと言われています。
イケメンだった?
いつの時代もそうですけど歴史上の人物などはよく美形に描かれており、実際の肖像画を見るとその違いに愕然とする人もしばしば。
義経のその1人で実際にはイケメンではなかったのではないかとされています。
義経の人生を描いた『義経記』には女と見まごうほどの色白のイケメンとされています。
しかし、『平家物語』には「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べられています。
でも、義経記の場合だと脚色が入っており、平家物語だと相手を悪くいう場面であったため悪い容姿にされていたかもしれないのです。
結論、義経が一体イケメンであったのかどうかは分かっていません。
愛用していた刀
源義経が愛用していた刀は膝丸という刀。
源氏ゆかりの刀として知られており、祖先である源満仲の命令によって作られたとされており、罪人を試し斬りとして斬った時には膝まで切れたとためこの名が付けられたという逸話も有名です。
名言
『鹿も四足、馬も四足!』
(一ノ谷の合戦の時の鵯越の逆落としを実行するときの言葉)
家系図
義経の父は源義朝という人。
面識はほとんどなかったのですが、この人は代々武士として活躍していた河内源氏の出身であり、さらにそこから遡ると清和天皇に行き着きます。
母「常盤御前」について
義経の母と呼ばれているのが常盤御前という女性。
この常盤御前は近衛天皇の中宮の召使いであったとされており、源義朝の側室として義経を含む3人の男子を生みました。
ちなみに、その後は敵である平清盛の妾となり、最終的には一条長成の側室となったそうです。
子孫について
義経の息子は幼子を含めていたそうですが、残念なことに兄の頼朝によって全員処刑されています。
頼朝からしたら遺恨を残さないようにするためだったとされますが、このことによって子孫はいない状態となりました。
死因と最期
義経は平氏を滅ぼした後、官位を勝手にもらったことなどをしたせいで頼朝と対立。
昔匿ってくれた奥州藤原氏の本拠地である平泉に逃れます。
しかし、奥州藤原氏からしてもこの義経を匿ったことが原因で頼朝から攻められたらたまったもんじゃありません。
最終的にはこの当時の当主であった藤原泰衡に襲撃にあってしまい、衣川の館で自害しました。
享年31歳
源義経と源頼朝の関係は?
義経と頼朝といえば最終的に争うライバルとして描かれることになるのですが、実はこの2人は面識はほとんどありませんでした。
そもそも義経が生まれた時に平治の乱が起きてしまい、父は暗殺され頼朝は伊豆に流罪となりました。
義経自身は鞍馬山に預けられることになっていたため、出会ったのは富士川の戦いの後で面会したぐらいだったそうです。
屋島の戦いについて
義経が平氏と争った1回目の戦いがこの屋島の戦い。
一ノ谷で敗れた平氏は讃岐国の屋島に逃げ込んだのですが、義経は少数精鋭で紀伊水道を渡って阿波に上陸してそこから陸で讃岐に向かえば平氏があまり得意ではない陸戦に持ち込めて、さらに屋後ろから奇襲できると思ったのです。
結果この考えは大当たり。
最終的に奇襲をかけられたことによって平氏軍は大混乱し、屋島を捨てて西へと向かったのでした。
ちなみに、この屋島の戦いの時にまつわる逸話の一つに義経の弓流しという逸話があります。
義経は屋島の戦いの途中に手を滑らしてしまい自らの弓を海の中へ落としてしまいました。
もちろんいちいち拾いに行ったら狙い撃ちにされる可能性がありますので家臣たちは「弓はお捨て下さい」というのですが、義経は激しい攻撃の中弓を拾い上げました。
家臣は義経に対してこのことを注意したのですが、義経は、
「弓がもったいないと思って拾ったのではない。立派な弓であればわざと平氏に拾わせるが、こんな張りの弱い弓を敵に拾われてしまえばこれが源氏の大将軍である義経の弓と笑われてしまったら源氏の末代まで恥になってしまう。そのために命に代えて拾ったのだ。」
そのことを聞いた家臣たちは、源氏の名誉を守った彼の行動に心を打たれたのでした。
一ノ谷の戦いについて
義経が平氏と争った1回目の戦いがこの一ノ谷の戦い。
この少し前に源義仲と争っていた頼朝と義経の隙をついた形で平氏が一ノ谷(現在の神戸市)あたりまで再び進出。
義経はこれに対抗するために急いで一ノ谷に向かいましたが、平氏が陣取っていた場所はすぐそばまで山が迫っているほどの自然の要塞でした。
義経はこれをなんとかするためになんと迫っている崖から馬で駆け下りるといういわゆる鵯越の逆落としを強行。
最終的には平氏軍は大混乱に陥って義経の大勝利に終わりました。
壇ノ浦の戦い
平氏最期の戦いがこの壇ノ浦の戦い。
屋島の戦いの後一気に勢力を落としてしまい、いつしか長門国の彦島一帯をかろうじて抑えるほどまでなってしまいましたが、義経はこれを断固として潰すためについに彦島近くの壇ノ浦で海戦が起こりました。
平氏は元々海賊の追討などで名を挙げていましたので、海軍には自信あり。
しかし、義経は潮の流れとともに反撃を開始して、平氏を追い込み、最終的には滅亡に追い込まれるまでとなりました。
さて次は義経を題材とした作品についてみていきましょう。
源義経を題材にした作品
義経はその活躍や、悲劇的な最期などからさまざまな場面の題材として描かれています。
大河ドラマ「義経」
義経を題材とした作品として代表格としてあげられるのが2005年に放送された大河ドラマである義経。
主役の義経を滝沢秀明が演じ、義経の波乱万丈な生涯を描いた作品となっています。
映画
義経が登場する映画は数多くありますが、そんな彼を主役とした映画が『源義経』。
上演した年が1955年とかなり古い作品ですが、古い作品だからこそ出せる味わい深さを体感することができ、主演である中村錦之助の演技も光っています。
おすすめの本や漫画
義経のことをもっと知りたいのであればオススメなのが司馬遼太郎の『義経』。
司馬遼太郎といえば数多くの歴史小説を書いた人でも有名ですが、この作品はどのようにして義経が自害するまでに至ったのかを克明に表しているところが特徴。
司馬遼太郎の本が好きなのであれば是非とも読んでほしい一冊です。
また、小説が苦手な人であれば、集英社の日本の伝記『源義経』もオススメです。
源義経ゆかりの地
義経ゆかりの地といえばやはり有名どころは京都の鞍馬寺と平泉。
鞍馬寺は義経が幼少期の頃に預けられた寺として知られており、16歳までこの寺で生活したそうです。
平泉は義経が幼少期と晩年を過ごした地。
元々平泉は金がよく産出されており、この金を使って奥州藤原氏の本拠地として100年間みちのくの大都市として輝き、今では世界遺産として登録されています。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 義経には色々な伝説があるが、ほとんどが創作のものである
- 義経は成年になると頼朝から平氏の追討を任されたが、壇ノ浦の戦い以降頼朝との仲が悪くなり、平泉で自害した
- 義経は一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにおいて奇想天外な作戦で勝利を収めた
最後になりましたが、義経の伝説はほとんどが創作ですが、それほど彼が世間の人から愛されているからこそのものだと思いますね。