今回解説していくのは武士の時代の始まりを告げる平将門の乱!
この乱によって朝廷が武士の実力を認めて武士という新しい階級が認知されるようになりました。
今回はそんな平将門の乱について
- 平将門の乱はどんな内乱だったのか?
- 平将門の乱の年号と起こった場所について
- 平将門の乱の経過と終結
- 東京に眠る将門伝説
- 平将門の乱と藤原純友の乱の関係性
- 平将門の子孫と平清盛との関係はあるのか
など今回は平将門の乱とは一体どんな内乱だったのかということを見ていきたいと思います!
平将門の乱とは?
平将門の乱とは935年に下総(千葉県中部)の武士であった平将門が自ら新皇となのり、関東中心で反乱を起こした事件のことです。
平将門は桓武天皇の血を引く結構な家柄の持ち主でした。
しかし、平将門が所属している坂東平氏はこの頃お家騒動があって、平将門はその騒動に巻き込まれる形で対立していくようになりました。
そしてその騒動は平将門のライバルであった平国香の方に国を管理する国司などの国のお役人様がついたことによって絶体絶命な状態に。
万事休すの平将門はここまできたらやるしかないと桓武天皇の子孫ということから自ら新しい天皇と名乗り、反乱を起こしたのでした。
年号
平将門の乱が起こったのは935年。
この年は元号にすると承平五年だったこともあって、この乱のことをのちに続くことになる藤原純友の乱と合わせて承平・天慶の乱といったりします。
場所
平将門の乱の中心地となったのは関東地方の岩井(茨城県坂東市)あたりと言われているそうで、ここを中心に内乱が起こっていました。
今では坂東市には平将門の銅像がひっそりとそびえ立っています。
地図
平将門は内乱を起こした後、国の役所である国府を次々に襲撃。
一時期は関東地方のほとんどを手中に収めるほどの大勢力を築きあげました。
原因と結果
平将門が坂東平氏の一族として活躍し始めてきた時、平国香という人が父が亡くなっ時に平将門にあげられるはずであった領地を自分のものにしようとします。
こうなるとやばいのが将門です。
将門は奪われる前に国香をなんとかしようとして戦いを起こし、その勢いそのまま国香とその仲間であった源護を討ち取ってしまいます。
当時というものは弔い合戦をすることは武士にとっては一番重要な事だったので、国香の恨みと言わんばかりに次は平良兼という人が襲ってきました。
将門は朝廷に対して自分の立場が危ういんですと訴えを出してこれに勝利。
でも、一難去ってまた一難だったそうで、次は武蔵国の役人と揉め事を起こしてしまいます。
これに巻き込まれてしまった将門は一気に立場が危うくなってしまい、さらに平貞盛という人が将門を裏切るという事態に陥ります。
こうなったらどうしようもなく、平将門は一発逆転を目指そうと内乱を起こしたというわけなんです。
結局、この内乱は朝敵になったことで圧倒的に不利になったこともあって平将門は追い詰められて最終的には額に矢を受けてしまい戦死してしまいます。
こうして平将門の乱は平将門の戦死によって終結しましたが、平将門の恐ろしさはここから。
平将門は戦死した後首をはねられてしまい、京都にて晒し首となってしまいます。
(ちなみに、晒し首となった記録が残っているのは平将門が一番古い)
まぁ、朝廷に反乱を起こしたのですから晒し首になるのは当然といったら当然なんですが、首が晒されてから首が傷むことなく、さらには夜な夜な平将門が胴を繋げて反乱を起こすという叫び声が度々上がる始末。
そして首が晒されてから3日後にはいきなり首の目が開いて晒し首となっていた京都からいきなり飛び立ち、戦死した上総めがけてひとっ飛び。
しかし、残念なことに燃料切れだったのか途中の武蔵国で首が落ちることになります。
その首が落ちた地が今の東京都千代田区のど真ん中にある将門塚になります。
ただ、まだ祟りはあるらしく、第二次世界大戦後にこの将門塚を撤去しようとしたGHQのブルドーザーが横転して運転手が死亡したり、この将門塚を蹴った人はことごとく病気に苦しめられるようになるなどまだまだ将門の怨念は健在といってもいいかもしれませんね。
ちなみに、これは余談なんですが、このような怨念があってかこの将門塚近くに幕府を開いた徳川家は平将門を朝敵から外すように依頼して、今は平将門は朝敵ではございません。
これで平将門も一安心といったところでしょうか。
平将門の乱と藤原純友の乱の関係は?
平将門の乱と同じ時期に起こり、同じような内乱として藤原純友の乱が知られています。
藤原純友の乱とは伊予国の役人であった藤原純友が海賊と結託して瀬戸内海で大暴れした内乱のこと。
この乱は平将門の乱とともに承平・天慶の乱と呼んだりします。
しかし、瀬戸内海と関東地方は遠いですから、主だった関係はなかったというのが実情なんだとか。
しかし、藤原純友の乱と平将門の乱が起こったことによって、武士という新しい階級が注目されるようになり、源氏や平氏などに代表される武士団が徐々に朝廷内で地位を得ることになるのです。
承平・天慶の乱は武士の始まりといってもおかしくないような反乱だったということなんですね。
平将門の子孫
平将門が所属していた平氏の有名人としてもう1人平清盛がいます。
「同じ平氏なんだからなんか血縁関係あるの?」と思うかもしれませんが、その予想は半分あってて半分違うといったほうがいいかもしれません。
平将門の乱が起こり、平将門が戦死すると坂東平氏はお家争いに勝利した平国香の血筋が代々平氏の棟梁として存続していくようになります。
しかし、平氏はこれで懲りることはなく、100年後ぐらいにもう一回平将門の叔父の息子である平忠常が朝廷に対して反乱を起こす平忠常の乱という内乱を起こしてしまいました。
この乱によって関東での平氏の勢力は減少。
国香の孫である平維衡は仕方なく自分が持っていた所領の伊勢に移住することにして、この地にて再起を図ろうと奮闘していくことになります。
平清盛はこの平維衡から数えて6代目の平氏の棟梁となります。
平清盛は平将門の敵国香の家系出身でしたが、遠い親戚ということは間違っていないのですね。
ちなみに、平清盛がいる平氏のことを伊勢を拠点にしたことから伊勢平氏と言ったりします。
平氏のことが少しわかったところでまとめに入りましょう。
まとめ
まとめに入ります!
- 平将門の乱とは935年に起こった平将門を中心として関東で起こった内乱のこと
- 平将門は坂東平氏の争いに巻き込まれる形で内乱を起こした
- 平将門の乱は平将門の戦死によって終結したが、今でも怨霊伝説が残っており、東京都千代田区には将門塚が残っている
- 平将門の乱と同じ時期に藤原純友の乱も起こったが、両者の関係性は低いものであった
- 平清盛は平将門の敵である平国香の子孫の伊勢平氏出身の武士だが、将門とは遠い親戚関係に当たっている
最後になりましたが、この平将門の乱は史上初めて武士団が起こした内乱でもありました。
この乱以降、朝廷では武士を重宝し出していくようになり、武家社会の基盤となっていくのでした。