今回解説していくのは学問の神様でおなじみの菅原道真!
菅原道真といえば悲劇の人ながら最終的には天満宮に祀られる存在となっていったのですが、今回はそんな菅原道真について
- 菅原道真とはどんな人物なのか?
- 菅原道真の和歌と家系図について
- 菅原道真が天満宮に祀られるようになった理由
- 菅原道真の伝説
- 全国の天満宮について
などなと菅原道真について詳しく解説していきたいと思います!
目次
菅原道真とは?
菅原道真は平安時代初期から中期にかけて朝廷を支えた第一人者です。
菅原道真は中小貴族であった菅原家の出身にもかかわらず、宇多天皇の寛平の治に積極的に参画して朝廷を支えた人として知られている一方、濡れ衣を着せられてしまい昌泰の変で大宰府に左遷されてしまった悲劇の人としても有名です。
現在ではこのような貴族とは違い、天神さまと『学問の神様』としてのイメージが強いですね。
異称
菅原道真は菅原家出身であったため菅家と呼ばれていました。
百人一首では菅原道真の歌がこの菅家として残されています。
また、亡くなったの地に神様となると天満大自在天神や、日本太政威徳天と呼ばれるようになりました。
菅原道真が祀られている天満宮はこの天満大自在天神から来ているんですね。
命日
菅原道真がなくなったのは旧暦903年2月25日のこと。
昌泰の変で流されてから2年後のことで、彼が大好きであった梅が咲いた頃に亡くなったのです。
名言
『勉強にしろ、仕事にしろ、誠心誠意の努力をするならば、祈らなくても、神は守ってくださる。』
経歴と年表
菅原道真は845年に菅原是善の長男として生まれました。
道真が生まれた菅原氏は昔から学問の家系であったため、道真も幼少時から父から漢文や詩歌などを学びます。
そしてわずか5歳で和歌を詠むなど菅原氏の長男として遜色がないほど才能を発揮したりしました。
成長した道真はわずか18歳という若さで文章生の試験に合格し、さらに学者としての最高位である文章博士にも就任しています。
道真は学者としてだけではなく、政治家としても活躍していくことになります。
それまでは家格に応じた官職に就いていました。
ですが、阿衡の紛議の仲介役を買って出たところから当時の天皇であった宇多天皇の信任を受けるようになります。
そして、これまでついていた讃岐守から一気に格を上げていくようになります。
894年には遣唐大使に任命され、895年には学者としては異例中の異例である従三位・権中納言の地位を獲得。
そして897年に道真は公卿として列席できる出世の役職であった権大納言と兼右近衛大将に就任。
この時藤原氏の実力者であった藤原時平とともに太政官の公卿に任ぜられるようになり、最終的には道真は右大臣という朝廷のトップ2の役職を手に入れることになりました。
この道真の異例の出世はこの時皇室の外戚として権勢を振るっていた藤原氏を牽制しようとした宇多天皇の気持ちによるものだったそうです。
しかし、このような元々学者であった道真の出世は、藤原氏だけではなく他の貴族たちの嫉妬の対象となり、左大臣であった時平を中心として道真を排除する動きが出てしまいます。
時平は醍醐天皇に対して「道真は自分の義理の息子である斉世親王を天皇にしようとしている」という讒言を伝え道真の排除を画策。
これは根拠のないうわさだったとされており、宇多上皇はこの排除工作を跳ね除けようと奔走します。
ですが、この言葉を信じた醍醐天皇は道真を太宰権帥に格下げし、大宰府に左遷しました。
その後、道真は太宰権帥として今日の生活も困るぐらいの生活を送りながら903年に亡くなりました。
年表
845年 生まれる
862年 文章生となる
877年 文章生のトップである文章博士となる
886年 讃岐守(讃岐国の長官)として赴任される
888年 宇多天皇の要請で阿衡の紛議を収める
891年 蔵人頭に就任
894年 遣唐使の長官となるが中止を奏上する
897年 権大納言兼右近衛大将に就任
899年 右大臣に就任
901年 昌泰の変によって太宰府に左遷される
903年 太宰府にて死去
有名な和歌
菅原道真といえば梅の和歌がとても有名。
この頃は桜ではなく梅が春の花の代名詞でしたが、菅原道真は特に梅に関する和歌を数多く残しています。
『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』という歌は特に有名。
また、百人一首に収められている『此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に』という歌も有名ですね。
家系図
菅原道真が生まれた菅原家は元々土師氏という古墳造営などの葬儀に関係する一族の生まれで彼の曾祖父である菅原古人の代になって天皇から新しく菅原の姓を与えられて誕生した一族でした。
ちなみに母方は大伴家持などを輩出した伴氏の出身。
教養深い一族から生まれたのが菅原道真だったのです。
子孫
菅原道真が大宰府に流された後、菅原家はこれまで通り下級役人として国司に派遣されたり、学者として活躍する人が増えていきます。
その中でも特に有名なのが菅原道真から数えて6代目にあたる菅原孝標女という女性。
国語好きの方ならピンと来るかもしれませんが、この人こそ平安時代の日記文学の代表格として知られている『更級日記』の作者なのです。
菅原道真の学者ととしての血筋は死後も着々と続いていたのですね。
菅原道真はなぜ遣唐使を廃止にしたのか?
菅原道真の功績の一つに遣唐使の廃止があります。
遣唐使といえば奈良・平安時代の時に当時アジアで栄えていた唐に対して日本の学者や僧侶たちが留学するというものでしたが、道真は宇多天皇に対してこの遣唐使の派遣を中止する内容の奏上を行なっています。
実はこれには訳があって、まず一つ目に唐が度重なる反乱によって衰退していたということがありました。
この頃になると唐では黄巣の乱という大反乱の傷跡が決め手となり完全にボロボロの状態と化しており、滅亡一歩手前となっていました。
奈良時代だったらいろんな知識がつけられたたかもしれませんが、いつ滅ぶかもわからない国に行くのは嫌ですよね。
また、遣唐使を派遣するとなると船の造船費用など出費がバカにならないということがあり、嵐とかにあって遭難したりするとなると全てがパーになるという大変ギャンブル性が高い事業でもありました。
さらに、もしこのままいけば道真が遣唐使のリーダーとなる可能性が非常に高いこともあり、上の理由からこのハイリスクローリターンなことに関わりたくなかったという感情もあったのでしょう。
結果的に894年に遣唐使派遣は中止。
907年に唐が滅んだことによって遣唐使は完全に無くなることになりました。
菅原道真の神社に祀られた理由
菅原道真といえば学問の神様を始め様々な分野で神様として崇められているイメージがあると思います。
受験の頃になると彼が祀られている天満宮とかに参拝することがあるかもしれません。
しかし、実は彼が神様として祀られることになったのは彼が晩年にあった不遇な出来事と、彼の性質にあったのです。
実は怨霊を鎮めるために祀られた?
菅原道真は学問の神だと言われている一方で、日本三大怨霊の一人にも数えられています。
怨霊というとなんか恐ろしい気がしますが、菅原道真は上にも書いた通り901年に藤原時平の讒言によって太宰権帥というポストに左遷させられてしまい、最終的には2年後の903年に亡くなってしまいます。
これだけだったら単なる政変として片付けられるのですが、彼が亡くなってからの都の様子が徐々に変化していくことになります。
道真が亡くなってから5年後の908年、道真の左遷に加担したとされる藤原菅根が雷に打たれ死去。
その翌年には彼を大宰府に追いやった張本人である藤原時平が39歳で急死、また913年には首謀者の一人であり彼が大宰府に左遷されてからの右大臣である源光は鷹狩りの最中に沼にはまりそのまま溺死する事件も起こってしまいます。
立て続けに首謀者が亡くなっていくこの状況を見て都の人々は道真の怨霊によるものだと密かに噂されるようになるのですが、930年についに彼の怨霊のクライマックスとも言える事件が起こってしまいます。
この年は干ばつなどの影響によって天皇自ら雨乞いをしようと考える会議が清涼殿という場所で行われたのですが、夕暮れになると途端に雷雲がやってきて平安京を覆い尽くします。
雨乞いしなくてもよくなったとみんな思ったはずですが、その矢先に雷が天皇がいる清涼殿近くの柱に直撃。
多くの公卿たちがこの落雷によって命を失ってしまい、さらにこの悲惨な状況を見て醍醐天皇が3ヶ月後に崩御してしまいました。
この様子を見た朝廷の公家たちは道真を神様として丁重に祀ることに決定。
日本には怨霊は大切に扱うと守護神に変身するといわれていたことがあり、947年に彼を祀る北野天満宮が建立されることになりました。
藤原時平が若くして亡くなった原因は菅原道真の怨念?
上にも書いた通り、道真を追いやった張本人である藤原時平はその後に急死することになります。
時平は左遷させた後に病気がちになり、有名な僧侶の祈祷を受けるようになるのですが、とある日僧侶が祈祷をしようと時平の元を訪ねると彼の両耳から龍が現れ、
「無実の罪で大宰府に流されて死んだ私は、今や天帝(帝釈天のこと)の許しを得て、怨敵に復讐するため京に舞い戻ってきた。お前の息子は時平のために加持祈祷をしているがどうせ無駄なことよ」
と言ったのちに時平を呪い殺したそうです。
もちろんこれは噂の一つですが、それだけ道真の怨霊が恐れられたという訳なんですね。
なぜ学問の神様とされているのか?
菅原道真=学問の神様と言われるぐらい彼といえば学問に関する神様だと言われているんですが、これは菅原家が代々学者の血筋であり、彼も元々は学者だったことから彼を学問の神様として祀ったんだそうです。
ちなみに、道真が学問の神様として崇められるようになったのは江戸時代のころだといわれており、それ以外にも和歌の神様や雷神の神様などいろんな分野で神様として崇められています。
菅原道真の飛梅伝説とは?
道真といえば上にも書いたように梅に関する和歌を数多く残しています。
ただ、この『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』という歌を詠んだ後にはとある伝説がありました。
それは菅原道真が大宰府にさせられる直前、最後に庭先の梅を見ながらあの和歌を詠んだのち、道真は大宰府に向かって出発するのですが、その庭先に植えられていた花たちは彼を思うばかりに枯れてしまったんだそう。
しかし、道真が一番愛していた梅だけは道真の後を追いたい気持ちが強すぎてなんと空を飛んだそうで、わずか一日で庭の梅は道真が流された大宰府に到着したそうです。
梅を愛した彼らしいエピソードですね。
菅原道真と牛について
菅原道真と牛の関係はこうです。
菅原道真が903年に亡くなったのちに亡骸を乗せた牛車によって運ばれることになるのですが、その運ぶ途中に牛が座り込んで動かなくなってしまいました。
鞭で叩いても全くビクともしない様子を見て人々は「この牛はここに道真の亡骸を葬って欲しいのだな」と思い、ここを墓所にしたんだそうです。
また、菅原道真が丑年の生まれだったこともあってか菅原道真と牛は共に神聖視されることになりました。
菅原道真公を祀っている主な神社
上にも書いたように菅原道真はのちに学問の神として天満宮に祀られるようになります。
菅原道真が祀られている天満宮について見ていきましょう。
京都
947年に創建された北野天満宮は菅原道真を祀った最初の天満宮であり、全国12000社ある天満宮の総本山として知られており、中世に突入しても菅原氏や藤原氏や室町将軍家の信仰を受けながら発展していきました。
1444年に一度焼失してしまいましたが、その後豊臣秀吉による北野大茶会などが行われながら1607年に再建。
菅原道真が学者だったこともあり、江戸時代には各地に置かれていた寺子屋に天神様の肖像画が置かれるようになり、受験期には数多くの受験生が参拝に訪れる由緒正しい場所として知られています。
大阪
大阪の天満宮といえばやはり、南森町にある大阪天満宮。
元々はこの大阪天満宮は大将軍社という別の神社でしたが、菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ左遷させられた際にこの大将軍社に参詣した事があって、道真が亡くなった後に天神信仰が広まり始め大阪天満宮が成立しました。
毎年7月下旬には天神祭の花火が近くでやっており、大阪の受験生をはじめ大阪市民にはとても馴染みの深い神社としても知られています。
東京
東京における天満宮の代表格として知られているのが、東京都文京区に位置している湯島天神。
この天満宮は458年に創建された由緒正しい神社だったのですが、地元の住民の要請もあって1355年から菅原道真も祀られるようになりました。
今では梅の名所としても知られており、春になると大勢の観光客が訪れるスポットとなりました。
福岡
北野天満宮と並んで日本で有名な天満宮といえば太宰府近くにある太宰府天満宮でしょう。
太宰府といえば菅原道真が流されたあと亡くなるまで暮らしたゆかりの地。
903年に道真が亡くなると905年に祀廟が創建され、919年には天皇による直々の命令により立派なご社殿が建立されました。
その後、太宰府が衰退した後は太宰府の天満宮を中心とする門前町として発展していき、今では年間に200万人以上の参拝客が訪れています。
菅原道真に関する本
菅原道真のことをもっと知りたいのであれば高野澄が書いた『太宰府天満宮の謎』がオススメです。
この本の中にはどうして道真を太宰府に左遷したのかということや、彼の晩年の生活から太宰府天満宮が建立されるまでの歴史について描かれています。
とても面白い本なので是非一度読まれてみたらいかがでしょうか?
それではまとめに入ります!
まとめ
では最後に内容をまとめます。
- 菅原道真は学者の家系として生まれて最終的には右大臣にまで登った
- 菅原道真は梅の和歌を中心に詠んでいる歌人としても有名でであった
- 菅原道真は太宰府に左遷されたが、亡くなったのちに政敵が次々となくなり、さらには清涼殿に雷が落ちると怨霊として祀られるようになった
- 菅原道真を祀っている天満宮は全国各地にあり、太宰府天満宮と北野天満宮は特に有名
最後になりましたが、菅原道真は学問の神様として祀られており、今でも信仰を受けています。
もしかしたら道真公を祀ったら志望校に合格できるかもしれませんね。