今回解説していくのは蝦夷討伐を成し遂げ征夷大将軍になった坂上田村麻呂!
彼はのちに平安時代の武将の代表的な人物となっていきますが、今回はそんな彼について
- 坂上田村麻呂が行った蝦夷討伐
- 坂上田村麻呂の伝説と逸話
- 坂上田村麻呂と征夷大将軍
- 坂上田村麻呂と清水寺の関係
- 坂上田村麻呂の子孫たちについて
など様々なことについて解説していきたいと思います!
目次
坂上田村麻呂とアテルイの戦いについて!
坂上田村麻呂の最大の事業といえばやはり東北地方に居住していた蝦夷の討伐だったでしょう。
蝦夷というのは奈良時代後期から平安時代前期にかけて東北地方で朝廷勢力と抵抗した人々のことを指します。
朝廷側はこの蝦夷という勢力を抑えて東北地方にも勢力を築き上げたいと考えていました。
その中でも特に蝦夷のリーダーとして活躍し、巣伏の戦いで10倍いた朝廷軍をあっさりと退治したのがアテルイでした。
この頃朝廷では平安京遷都だったりと大忙しだったこともあり、当時の蝦夷討伐の大将であった紀古佐美は大敗北。
朝廷の蝦夷討伐は頓挫してしまいます。
こんな時に蝦夷討伐の任務を受け取ったのが、大伴弟麻呂と今回の主人公である坂上田村麻呂でした。
この当時正式な蝦夷討伐のリーダーであり、征夷大将軍に任ぜられていたのは大伴弟麻呂でした。
ですが、実質的なリーダーはこの当時大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任ぜられていた坂上田村麻呂でした。
坂上田村麻呂は796年に鎮守府将軍と陸奥守を授任。
さらに翌年にはついに征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷討伐に本腰を入れ始めます。
坂上田村麻呂は801年に当時蝦夷最大の拠点であった胆沢というところに4万の兵で進軍。
坂上田村麻呂の強いカリスマ性や軍事的才能もあり蝦夷勢力を撃破して胆沢周辺を占拠。
胆沢城を建てた頃に蝦夷のリーダーと出会ったアテルイとモレが500人を率いて降伏しました。
坂上田村麻呂は彼らのカリスマ性や性格を気に入り平安京に連れて帰りました。
そして、最終的には彼らを中心に蝦夷を支配する事を必死に嘆願したそうですが、公卿たちからはこれを機に舐められるとして反発。
最後には河内国杜山にて斬首刑に処せられてしまうことになりました。
このような悲劇がありながらも朝廷は東北地方を支配。
蝦夷は北に逃れるか、朝廷に降り天皇の民としての暮らしを送ることになったのです。
坂上田村麻呂の伝説や逸話
坂上田村麻呂は蝦夷の反乱の討伐や征夷大将軍に任命されたことから、平安時代以後でも
- 文人の菅原道真
- 武人の坂上田村麻呂
として東京大学に肖像画が掲げられるほどの武人の理想像として扱われています。
そのためそのエピソードもその武人のモデルとしてふさわしいものばかり。
坂上田村麻呂の身長は五尺八寸(176センチ)とまあまあなものなんですが、胸の厚さが1尺2寸(36センチ)。
かなりの胸筋を持っていたことがわかりますね。
さらに髪の毛は黄金の糸を繋いだようだったとされ、目は鷹の目に似ていたそうな。
蝦夷を討伐するぐらいなのですからそれぐらいあったのでしょうね。
また、彼は蝦夷だけではなく鬼も退治したとされているのです。
田村草紙には鈴鹿山にいた鈴鹿御前と仲良くなってしまい、最終的には鈴鹿山にいた鬼を退治してしまうという話なんですが、このように全国各地には坂上田村麻呂が鬼を退治したという伝説が残っています。
あと、鎌倉時代の吾妻鏡には悪路王という奥州の強いやつを田村麻呂が退治するという逸話が残されています。
実はこの悪路王はアテルイのことなのではないかと言われています。
ただ、これを見ると坂上田村麻呂とアテルイの戦いはいつの時代でも人気の物語だったことが伺えますね。
坂上田村麻呂は一番最初の征夷大将軍ではない?
上にも書いた通り、征夷大将軍に初めて任ぜられたのは坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂という人物でした。
元々は蝦夷を討伐するための臨時職だったのですが、やはり坂上田村麻呂があまりにも活躍しすぎたことや、彼の武人のイメージが強すぎることもあり彼が初代征夷大将軍だと思われがちなんだそうだとか。
ちなみに、坂上田村麻呂の後に文室綿麻呂という人が征夷大将軍に任ぜられられたのですが、この人が蝦夷を完全に服属したと朝廷に奏上したこともあり、彼を最後に征夷大将軍の職は無くなることになります。
そして1192年に源頼朝は形だけ征夷大将軍に任ぜられるようになった事をきっかけに武士のトップがつく職業へと変わっていったのです。
坂上田村麻呂は清水寺創建に携わった?
今では京都の観光名所として外国人が多数来訪している清水寺。
この寺は778年に大和国の興福寺の僧侶として修行に励んでいた賢心という人が、夢のお告げで「北に向かって求めよ」と言われ、山背国愛宕郡の東山に寺を建てたのが始まりでした。
その2年後に坂上田村麻呂は清水寺が建てられた音羽山という場所で鹿の狩りを行なっていたんだとか。
これは訳あって鹿の血を妻の高子さんの病気の治療に使うんだとか。
しかし、仏教の世界に殺生は禁物。
音羽山で修行に励んでした賢心は坂上田村麻呂に殺生についての話を説かれ、これに反省した田村麻呂は観音様に帰依して自身の家の土地を清水寺に寄進したといいます。
田村麻呂は蝦夷討伐の命令を受けて東北地方に立つ事になるのですが、田村麻呂はこの時にも清水寺に参拝し、戦勝祈願したそうです。
その後、蝦夷討伐の役目を終えた田村麻呂は清水寺の本堂を建築。
今にも残る清水の舞台もこの頃作られ、今では賢心を開山した僧侶としているものの、坂上田村麻呂を本願として清水寺の建立の立役者として扱われています。
坂上田村麻呂の子孫は有名人?
坂上田村麻呂は軍神として扱われていたこともあり、その後の子孫たちは陸奥守や警察のような働きをした検非違使になっていきます。
その中でも次男である坂上広野の家系は明治時代になるまで大阪府平野で代々地主を営んでいたとか。
また、坂上田村麻呂の家系は戦国時代では奥州の名家として名を馳せ、子孫の田村家の娘愛姫はあの伊達政宗の正室となり、その縁からか伊達家の家臣として仙台で活躍しました。
現在では芸人として活躍されているたかまつななさんなどが子孫として言われているみたいです。
ただ、平安時代の人物ですのでかなり血が繋がっている人はいっぱいいそうですけどね。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめに入ります!
- 坂上田村麻呂は蝦夷討伐に名を上げ、朝廷軍を苦しめたアテルイを降伏させる功績を挙げた
- 坂上田村麻呂は平安時代以降になると武人の代表例として崇められ、それに見合った伝説や逸話などが残されている
- 坂上田村麻呂は征夷大将軍になったものの、実は初代征夷大将軍は大伴弟麻呂である
- 坂上田村麻呂は清水寺の建立に携わった
- 坂上田村麻呂の子孫は大阪府平野の地主となったり、伊達政宗の正室になるなど様々な分野で活躍した
最後になりましたが、坂上田村麻呂は後の武家社会からも尊敬を集めて、今でも彼にまつわる様々な物語が作られています。
蝦夷討伐の立役者であり、武人として遜色のない彼こそが本物の征夷大将軍だったのかもしれませんね。