今回は、天保10年(1839年)に起きた幕府による弾圧事件『蛮社の獄』についてです。
- 蛮社の獄により誰がどのような理由で処分されたのか?
- 蛮社の獄がその後の幕府政策に影響を与えた?
- 蛮社の獄と安政の大獄の違いは?
などなど、詳しく解説していきたいと思います!
蛮社の獄と高野長英の関係は?
高野長英は、江戸時代後期の医学・蘭学者です。
当時は蘭学が発達した時期にあたり、渡辺崋山という人物がその指導的立場にいました。
高野長英は、崋山に知識を提供する立場にいたようです。
彼は、幕政を批判したことで、蛮社の獄により処罰を受けました。
その幕政とは、モリソン号事件への対応と鎖国体制です。
モリソン号事件は、1837年、日本人の漂流民を乗せたアメリカの商船に対して、日本が砲撃した事件です。
当時は日本国内ではその後の方針について意見が分かれていました。
幕閣による決定事項は、漂流民はオランダ船による送還だけ認めよう、というものでありましたが、寺社奉行・町奉行などが集う評定所での意見は、漂流民は受け取る必要はなく、モリソン号が再来した場合はまた打ち払ってしまおう、というものでした。
評定所でのこの意見は最も強硬であり、却下されたのですが、崋山や長英の耳には、この評定所の意見のみが入ってきてしまったのです!
彼らは必然的に、幕府の主の方針は外国船を打ち払うことであり、モリソン号の来航はすでに起きたことではなくてこれから起こることだ、という誤解をしてしまいます。
この情報を得てからなんと1週間も経たずに、長英は幕府政策を批判した『戊戌夢物語』を書き上げました。
この書は、彼の予想に反して多くの学者に伝わり、大きな反響を呼んだため、1839年の春頃には幕府内にも達します。
当時の老中であった水野忠邦は、鳥居耀蔵という人物に『戊戌夢物語』の作者の探索を命じ、その後の鳥居の告発によって、長英や崋山を含めた8名が逮捕となりました。
これが、蛮社の獄の一部始終です。
ちなみに、「蛮社」は「南蛮の学を学ぶ集団」の意味で使われており、長英や崋山のグループを指していました。
次の章では、『戊戌夢物語』がどのようなものであったのかについて見ていきます!
戊戌夢物語
前の章で述べたように、幕府の意向が打ち払いにあると誤解してしまった長英は、『戊戌夢物語』を執筆します。
この書の内容が幕政を批判しているという理由で後に長英は捕まってしまいました。
しかし、長英が捕まるまでにはいくつかのポイントがあったことをご存知ですか?
まず、彼はこの書を匿名で書き上げています。
またこの書は、前半で一度幕府の対外政策を肯定しておき、後半に交易要求を断った場合の報復の恐れを暗示するような構成になっています。
幕府の打ち払いを、直接的に批判したというわけではないということです。
つまり、幕政を直接批判することが自分の身に何をもたらすのか、彼は十分に理解していたのであり、そうならないための対策はとっていたということです!
その後、『夢物語』は広まって反響を呼び、この書の内容に意見した書として『夢々物語』や『夢物語評』などが現れてくると、幕府の側にも危機意識が生まれ、長英逮捕に至ったのです。
次の章では、蛮社の獄と幕府の対外政策の変化との関わりを見ていきます。
蛮社の獄と薪水給与令の関係は?
まず、蛮社の獄が起きた当時の幕府の外国船への姿勢から見ていきます。
19世紀前半の幕府の考えは、日本と西洋の接触が徳川政権の地盤を揺るがしかねないだろう、というものでした。
そのため、1825年に出された異国船打ち払い令は、日本の沿岸にやってきた外国船は見つけ次第打ち払え、上陸した場合その外国人は逮捕しろ、という内容でした。
蘭学が広まり、開国への期待が膨らみつつあった民衆と、西洋とを完全に隔てようとしたわけです。
そんな折に起きたのが、モリソン号事件と蛮社の獄です。
これらの事件への対応の悪さは当然批判され、また中国がアヘン戦争に敗れて不平等条約を結ばされたことを受けて、幕府は対外政策を改めます。
それが、異国船打ち払い令の廃止と薪水給与令の制定です。
薪水給与令は、外国船への飲料水および燃料の提供を許可する、というものでした。
異国船打ち払い令が緩和されたというわけですね。
つまり、蛮社の獄が間接的に薪水給与令の制定を実現させたと言えるわけです!
蛮社の獄と異国船打ち払い令の関係は?
前章で見たように、異国船打ち払い令とは、日本に近づく外国船の上陸を認めず、砲撃して打ち払うべし、というものでしたね。
モリソン号事件とこれに伴う蛮社の獄への幕府の対応に批判が集まり、幕府は異国船打ち払い令を廃止するに至りました。
次の章では、蛮社の獄と安政の大獄の違いを比較していきます。
幕末期に起こった2つの弾圧事件は、紛らわしくも感じますが、そこには大きな違いが・・・!
蛮社の獄と安政の大獄の違いは?
それでは、幕末期に起きた幕府のもう一つの弾圧である安政の大獄と、今回の蛮社の獄とは、どこが違うのか見ていきましょう。
まず、どのような主張の人々が弾圧されたのか見ていきます。
蛮社の獄では、幕府の鎖国政策を批判していた人々が処罰されました。
蛮社の獄を主導したともいえる鳥居耀蔵は、幕府により正統とされた朱子学を司る林家の出身です。
したがって、蘭学者・渡辺崋山が、異国の知をもってして幕府の政策に介入することは、鳥居にとって絶対に避けたいことだったのです。
一方、大老・井伊直弼主導の下で行われた安政の大獄では、結果的に攘夷派が処分を受けることとなりました。
井伊は勅許(天皇による許可)を得ずに日米修好通商条約を結んでしまったことから、大きな非難を浴びていました。
そんな井伊を問いただすために水戸藩主・尾張藩主・福井藩主がそろって登城しますが、井伊は彼らに隠居・謹慎などの処分を下します。
これが安政の大獄の始まりであり、その後井伊の反対派は京都の公家であろうが捕縛の対象となってしまいます。
次に、処分を受けた人数を見ていきます。
蛮社の獄では、渡辺崋山・高野長英をはじめとした、10名弱が処分を受けました。
その一方で、安政の大獄では、なんと100人以上もの人々が処分を受けたのです!
安政の大獄では、直接的に井伊を批判していなくとも、連座(罪を犯した本人のみならず、その家族などにも連帯責任として刑罰を及ぼすこと)により処分が与えられたため、このような膨大な数となってしまったのです。
次の章では、蛮社の獄を取り上げた、ひとつの著作をご紹介します。
蛮社の獄のすべて
田中弘之『「蛮社の獄」のすべて』(吉川弘文館、2011)という本について、簡単にご紹介いたします。
蛮社の獄は、一般に謎の多い事件として語られており、本書はそんな蛮社の獄をさまざまな角度から検証していきます。
鳥居耀蔵は、どのようにして渡辺崋山逮捕を行ったのか?
鳥居は、崋山のみならず、無人島への渡航を企てた僧侶らにも注意しており、彼らを処分することとなったが、それはどうしてなのか?
こうしたさまざまな人物が入り混じった蛮社の獄の、真相に迫ろうとしている著作です。
まとめ
いかがでしょうか。
それではおさらいも兼ねて、もう一度蛮社の獄について振り返ってみましょう。
蛮社の獄は、1839年に起きた幕府による弾圧事件です。
『戊戌夢物語』を書いた高野長英など、モリソン号事件以来の幕府の鎖国政策を批判した人々が処分を受けました。
長英は幕府批判の危険性を分かっていたので、『夢物語』の執筆の際にも工夫を凝らしましたが、この書は思いのほか反響を呼び、幕府側の耳にも届くこととなります。
1825年以降、幕府は異国船打ち払い令に基づき、日本に近づいてくる外国船を追い返していましたが、モリソン号事件と蛮社の獄により方針を変え、薪水給与令を定めていましたね。
同じく幕末に起きた弾圧事件である安政の大獄とは、次の点で異なっています。
- 蛮社の獄では鎖国政策を批判した人々が、安政の大獄では攘夷派の人々が、それぞれ処分されたこと。
- 蛮社の獄で刑罰を与えられたのは10名弱であったが、安政の大獄では100名以上に上ったこと。
また、田中弘之氏による「蛮社の獄」のすべてという著作は、謎多き蛮社の獄の真相に迫ろうとしています。
是非手に取ってみてください!