今回解説していくのは『暴れん坊将軍』と呼ばれた徳川吉宗!
彼が行なった享保の改革によって幕府の財政は建て直されましたが、今回はそんな徳川吉宗について
- 徳川吉宗の生涯
- 徳川吉宗の妻について
- 徳川吉宗が行なった改革とは?
- 徳川吉宗のエピソード
など吉宗について詳しく解説していこうと思います!
果たして、彼は本当に『暴れん坊』だったのでしょうか!?
目次
徳川吉宗とは?
徳川吉宗は1684年に紀州藩主であった徳川光貞の四男として生まれました。
紀州藩という藩は徳川家が設置した親藩でもし将軍家に一大事があればここから将軍を選ぶというぐらいの格式高い藩でした。
しかし、吉宗は四男であり、さらに母が側室であったため家督をつげる確率はかなり低いものだったのです。
しかし、1697年に徳川綱吉によって越前国に3万石を与えられると藩主として活躍していくようになり、さらには他の兄が亡くなると1705年に紀州藩主に就任しました。
吉宗は就任すると当時ひどかった紀州藩の財政を立て直し、名君としての評価を高めていくように。
そして1716年に7代将軍である徳川家継が8歳で亡くなると本来であれば一番格式が高い尾張藩主(格式は尾張藩>紀州藩>>水戸藩という形であった)が継ぐところを大奥の支援を受けたこともあってか吉宗が継ぐことになりました。
その後はこれまで幕政に関与していた新井白石や間部詮房などといった幕臣たちを排除していき、自ら財政改革に乗り出していきます。
このいわゆる享保の改革によって幕府はある程度の財政を立て直すことに成功しました。
その後は将軍職を息子の家重に譲り、引退。
その6年後に66歳で亡くなりました。
年表
1684年 徳川光貞の四男として生まれる
1697年 徳川綱吉から3万石与えられる
1705年 紀州藩主に就任する
1716年 第8代将軍に就任する 享保の改革スタート
1745年 徳川家重に家督を譲る
1751年 吉宗66歳で死去
身長
徳川吉宗の身長は様々な説があり、岡崎市にある大樹寺と呼ばれる位牌が将軍の身長に合わせて作られているという説が採用されれば大体155センチ、また、五摂家の一つである近衛家の伝聞によれば180センチから185センチだと言われているのです。
徳川吉宗の妻は何人?
徳川吉宗の正式な妻の数は正室が1人、側室が6人計7人だと言われています。
しかし、非公式な女性を含めるとその数は数え切れないほどだと言われています。
正室
徳川吉宗の正室(御台所)は理子女王という伏見宮貞致親王の娘でしたが、吉宗が将軍になる前になんと出産のトラブルで亡くなってしまいます。
その後は、皇族から迎えると多額の結婚費用がかかると思ったのかは分かりませんが正室を娶ることはありませんでした。
側室
徳川吉宗の側室の数は6人いたと言われています。
しかし、手にかけた女性は多かったそうで、紀州藩主の時代からちょっと気にかかった女性がいたら片っ端から手を出したそうです。
久免(くめ)との関係
側室の1人である久免は紀州藩士の娘として生まれ、紀州藩主時代の吉宗に取り入れられて側室となりました。
吉宗が将軍になった後は1721年に芳姫(正雲院)を出産するのですが、1751年に吉宗がなくなると出家したそうです。
竹姫との関係
吉宗には養女として竹姫という女性がいました。
竹姫は元々公家の娘として生まれ、吉宗に正室として迎え入れようと計画されていましたが、これを6代将軍の正室であった天英院が反対し、最終的には養女として新しい嫁ぎ先を見つけることに落ち着いたそうです。
その後は難航しながらも最終的には薩摩藩主である島津継豊の側室として入り、継豊に嫌われながらも島津家と徳川宗家の架け橋となったそうです。
徳川吉宗が大奥を50人解雇した?
吉宗は改革を行ったことでも知られていますが、特に幕府の費用を使っていた場所こそが大奥だったのです。
吉宗はそこで大奥の中から美女50人を選ぶという驚くべき策に出たのです。
当時の吉宗は正室を亡くし独身だったためにこの命令は大奥の女性らにとって次期将軍の側室選びと思われており、大奥の人たちは我こそが美人と必死にとりいれられようとしたのです。
ところが吉宗は、「美人はほかに嫁ぎ先がすぐに決まるだろうから暇をとらす」と言ってリストラ。
吉宗は美人であれば大奥ではなくても幸せな生涯を送れるだろうと全員解雇という切れ者の吉宗だからこそできる思い切った行動に出たのです。
ちなみに、大奥には付き人制度もありますのでこの50人以外にもその女性に仕えていた付き人も全員解雇となり総勢1000人から2000人が解雇されたんだそうです。
徳川吉宗が行った政策や改革
徳川吉宗といえばやはり享保の改革を自ら行ったことにあるでしょう。
次は吉宗が享保の改革においてどのような改革を行っていったのかについて見ていこうと思います。
享保の改革
享保の改革の最大の特徴は農業を重視した政策だったこと。
吉宗はこの享保の改革によって米公方と呼ばれることになるのです。
吉宗はまず定免法という法律を出して、凶作の時でも、豊作の時でも一定の量の年貢を納めることを決め、税収の安定化を図りました。
また上米令による幕府財政収入の安定化を行い新田開発の推進を進めて税収の増加。
また、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映を行い、その目安箱の要望にあった診療所の開設を行い小石川養生所を設置。
さらに飢饉対策に青木昆陽などの力を使ってさつまいもの栽培を行ったりするなどの民衆の為の政治を行いました。
そして、これまで朱子学一辺倒だった学問もキリスト教以外の洋書輸入を行うことを認め、蘭学が発展する要素を作りました。
徳川吉宗が裁判の基準を作った?
徳川吉宗の功績の一つに公事方御定書の制定があります。
元々武家に対する法律はあったのですが、裁判の基準を設けたのが彼が最初だったと言われているのです。
公事方御定書
そもそも日本には御成敗式目や武家諸法度などの法律がありましたが、これはいわゆる武家に対する法律であり、武家の慣習や土地の管理などを成分化したものでした。
それに対し、公事方御定書というのは奉行所に対する裁判の基準を表したものであり、当時裁判の基準がなかった江戸時代にある程度基準を求めるために作ったのです。
ちなみに、この法律ができたことでこれまで死刑が基準だったものが、懲役刑が基準になったきっかけとなったといわれています。
徳川吉宗のエピソード
徳川吉宗といえば暴れん坊将軍というイメージが強いですが、本当にそうだったのでしょうか?
次はそんな吉宗のエピソードについて見ていこうと思います。
本当に暴れん坊将軍だったのか?
吉宗といえばやはり思いつくのが時代劇である『暴れん坊将軍』。
徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊の徳田新之助に姿を変えて悪者を斬るといった物語ですよね。
ただ前半生の境遇があまり良くなかったり、裁判の改革を行ったりしていたのですが吉宗自身が悪人を退治したとされるエピソードは残っておりません。
小松菜の名付け親?
おひたしにすると美味しい菜っ葉である小松菜。
実はこの小松菜は室町時代までは葛西菜と呼ばれており、小松菜とは言われていなかったのです。
言い伝えによれば徳川吉宗が鷹狩の際に香取神社に立ち寄ったさいにふるまわれた澄まし汁に入っていた青菜の味を吉宗はたいそう美味しいと思ったそうで、ふるまった神主に対して「この汁の菜をなんと申すか」と訪ねたそう。
神主はこの頃あまり良い地域と思われていなかった葛西の地名を避けて、その代わりに小松川の近くで取れたことから小松菜と呼んだのが始まりなんだそうです。
徳川吉宗の子孫
吉宗は4人の男子と1人の女子を設けました。
ただ吉宗は長男である徳川家重に継がせた後、残りの男子を養子に出すことはありませんでした。
そのかわり、次男の宗武は田安家、四男の宗尹は一橋家などのように江戸に住まわせて新しく御三家みたいな形で残すようにします。
これがいわゆる御三卿(清水家は吉宗の時はない)の始まりであり、特に一橋家は徳川家斉(一橋家斉)を輩出するなど貢献しているのです。
家系図
徳川吉宗は8代将軍となりましたが、実は彼は徳川宗家出身ではなく、それに準じた家柄である御三家の一つである紀州藩の生まれです。
徳川家康からしたら曽祖父にあたる地位にあります。
徳川吉宗の子供(家重)は女性だった?
徳川吉宗の嫡男であり、第9代将軍である徳川家重は脳性麻痺による言語障害があったということはほとんど事実となっているのですが、それからさらに発展して家重は実は女性なのではないかと言われているのです。
いかにもとんでもない説なのですが、その根拠も
- 埋葬された形が将軍であったらあぐらであるのに対し、家重だけ女性の座り方である正座となっている。
- 移動中のトイレは簡易式なものであったが、家重の場合は専用のトイレを設けた
- 頭蓋骨が女性らしいものであり、さらにその亡くなり方も女性に多い病気である
などかなり信憑性が高い証拠があるから言われているんだそうです。
徳川吉宗の死因は?
徳川吉宗の死因は脳卒中だと言われています。
しかし、68歳と当時としてはかなり長寿だったそうで、大御所として実権を握っていた時に亡くなったため、あまり混乱はありませんでした。
徳川吉宗の墓
徳川吉宗の墓は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺である寛永寺に眠っています。
この寛永寺には吉宗以外にも徳川家綱、綱吉、家治、家斉、家定の計6人の将軍が眠っています。
作品の中での徳川吉宗
徳川吉宗といえばやはり時代劇やドラマなどのイメージが強いと思いますが、次はそんな吉宗を題材とした作品についてみていきましょう。
大河ドラマ 八代将軍吉宗
徳川吉宗を主人公とした大河ドラマが『八代将軍吉宗』。
紀州徳川家に生まれてそして江戸幕府第八代征夷大将軍となって享保の改革を断行し、「幕府中興の祖」と呼ばれた徳川吉宗の生涯を描いています。
主演の吉宗役を西田敏行さん。
脚本は『独眼竜政宗』や『葵徳川三代』などを手がけたジェームス三木さんとなっています。
大奥
徳川吉宗と大奥の関係を描いたのが、2009年のフジテレビのドラマである『大奥〜最終章〜』。
フジテレビの大奥シリーズは連続テレビドラマは3本と6本の単発ドラマが放映されていましたが、この作品はその大奥シリーズの最終章として徳川吉宗の側室であった久免を主人公としています。
暴れん坊将軍
おそらく徳川吉宗の時代劇といえばこの作品といっても過言ではないほど有名なのが『暴れん坊将軍』。
1978年から2002年まで放送された長寿時代劇であり、主演の松平健が演じている徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊である徳田新之助に姿を変えながら、江戸の町で悪人を退治していくという内容となっています。
それではまとめに入りたいと思います!
まとめ
まとめです。
- 徳川吉宗は紀州藩主の四男として生まれ、藩主を務めて8代将軍となった
- 徳川吉宗には正室、側室を含めると7人の女性がいた
- 徳川吉宗は農業を重視した享保の改革を断行して、大奥の女中50人を一気に解雇した
- 徳川吉宗は小松菜の名付け親だと言われている
最後になりましたが、吉宗が行なった改革によって幕府の財政はある程度回復することになりました。
吉宗は幕府を救った人物だったのですね。