今回ご紹介するのは、大隈重信です。
明治維新直後から諸改革を実行し、多くの功績を残した人物です。
市民からの人気も高い政治家でしたが、襲撃に遭い負傷しています。
激動の時代を駆け抜けた、彼の85年の生涯を追います。
- 大隈重信の生涯とは。
- 大隈重信の残した功績について。
- 襲撃に遭い右足を失った?
- お札になれない理由とは?
今回はこうした点について特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
目次
大隈重信とは?
大隈重信は、明治大正期の政治家です。
1838年に佐賀で生まれた彼は、はじめ藩校弘道館で学びますがのちに放校処分となり、蘭学寮に移ります。
その後長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに会い、政治家になることを決意します。
1867年には将軍徳川慶喜に政権返上を勧告しようと脱藩しましたが、捕まって謹慎処分を受けています。
明治維新後、大蔵大輔となって鉄道・電信の建設や工部省の開設などに尽力し、1873年には大蔵卿となります。
大蔵卿として彼は「大隈財政」を展開し、地租改正や秩禄処分、殖産興業政策を進め、資本主義の基礎を築き上げました。
しかし、明治14年政変により薩長派と対立したことで、彼は一時政府を追われてしまいます。
すると翌年に立憲改進党を結成。
その年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立し青年教育にも携わります。
1888年には外相となりますが、爆弾を投げつけられて負傷し、辞任します(この出来事については後ほど詳述します)。
1898年には板垣退助とともに史上初の政党内閣を組織しますが、わずか4か月で総辞職しました。
その後政界を引退しますが、大正期に再び復帰し、1914年には第2次大隈内閣を組織して第一次世界大戦に参戦します。
この内閣は、中国に対して21カ条の要求を押し付けたことを批判され、総辞職しました。
大隈は1922年に85歳で亡くなりました。
日比谷公園において「国民葬」が行われ、約30万人もの一般市民が参列しました。
大隈が国民からの人気を集めていたことがよく分かりますね。
次に、大隈の出身地と彼の身長について見ていきます。
出身
大隈は、佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)において、佐賀藩士大隈信保の長男として生まれました。
大隈家は知行300石の上士の家柄でした。
身長
大隈の身長は当時としては非常に高く、180cmもあり、190cmあったのではという人がいるくらい目立つ体格だったようです。
2019年8月現在、歴代の総理大臣の中で一番高身長なのです!
次の章では、大隈が晩年にこだわっていたメロン栽培について見ていきます。
メロンの栽培にこだわっていた?
大隈は晩年、メロンの栽培に凝っていました。
1920年頃には自邸でメロンの品評会を開いています。
当時メロンは貴重品で、貴族の食べ物であったことを踏まえ、彼はこれを一般庶民にも普及させることを目指していました。
費用を惜しまず交配を繰り返したようで、ついに「ワセダ」という新しい品種まで作りだしたのです!
次に、大隈の死因について触れます。
死因
大隈は1922年に、胆石症により亡くなりました。
次に、大隈家の家系図とともに、重信の子孫について見ていきます。
家系図
子孫について
大隈重信と最初の妻・美登との間に生まれた長女である熊子は、陸奥盛岡藩15代藩主・南部利剛の次男である英麿と結婚し、英麿は大隈家に入りました。
英麿は重信が創立した東京専門学校の初代校長を務めたほか、衆議院議員も務めました。
しかし、1902年に熊子と離婚し、大隈家を去ってしまいました。
重信のもう一人の養子である信常は、衆議院議員や貴族院議員を務めたほか、大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)の初代代表取締役会長や、早稲田大学名誉総長としても活躍した人物です。
信常の子である信幸も政治家として活躍し、早稲田大学名誉顧問などにも就いており、2004年に亡くなった際には早稲田大学大隈講堂において大学葬が行われました。
次に、大隈重信に嫁いだ2人の妻についてご紹介します!
妻について
大隈重信は幕末期に美登という女性と結婚しましたが、その後三枝綾子と結婚し、美登とは1874年に離婚しました。
この美登との結婚について、彼は公の場で発言することはありませんでした。
その後50年以上にわたって彼を助けた2番目の妻である綾子は、賢妻の誉れの高い女性でした。
彼女は度量が大きく几帳面で、気前がよく、負けず嫌いであったそうです。
明治14年の政変後に経済的に困窮した際には、節約と土地の売り食いで重信を支え、重信が襲撃を受けた際にも彼の杖となって献身的に支えたのです。
また、佐賀の乱で死刑となった江藤新平の子を引き取って世話をし、世に出したことでも知られています。
1922年に重信が亡くなると、彼女もその後を追うように、翌年に74歳でこの世を去りました。
次の章では、大隈重信の残した功績について見ていきます。
大隈重信の功績
大隈の功績は数多くあります。
大蔵大輔となった明治初期の頃から、彼は木戸孝允に重用されていました。
大きな権力を持つようになった彼は、地租改正を行い、富岡製糸場を設立して殖産興業政策を進めました。
また、板垣退助と自由民権運動を展開し、薩長藩閥政府に対して憲法の制定や議会の開設などを要求しました。
そして、東京専門学校の創設と内閣総理大臣としての活躍も挙げられますね。
次からの章ではこれらの功績について見ていきます!
まずは、早稲田大学の創設です。
早稲田大学を創設
大隈の功績として有名なのが、この早稲田大学の創設ではないでしょうか。
大隈は1882年、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校を開設しました。
1902年に早稲田大学と改称します。
大隈家の養嗣子となった大隈英麿が初代校長を務め、大隈重信は1907年から初代総長を務めています。
現代にいたるまで数多くの有名な人物を輩出しています。
次に、内閣総理大臣としての大隈を見ていきます。
内閣総理大臣を務める
大隈は2度にわたって内閣を組閣しています。
第1次大隈内閣は1898年6月30日から同年11月8日までという短期の内閣でした。
史上初の政党内閣であるこの内閣では、大隈が内閣総理大臣と外務大臣を兼任し、内務大臣を板垣退助が務めていました。
両者の名字をとって、この内閣は「隈板内閣」とも呼ばれます。
しかし、この内閣は党内抗争により分裂してしまい、わずか4か月で崩壊しました。
第2次大隈内閣は、1914年4月16日から1916年10月9日まで続きました。
第一次世界大戦が勃発すると、イギリスと日英同盟を結んでいたことから連合国の一員としてドイツに宣戦布告します。
中国の山東半島・南洋諸島からドイツの勢力を駆逐すると、当時の中華民国に対して日本語の要求を行います。
ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承することなどを求めたこの要求については、当時の外相・加藤高明の暴走と見た西園寺公望らから不興を買っています。
さらに、陸軍拡張をめぐる問題(二個師団増設問題)から当時衆議院第1党であった立憲政友会と対立したほか、予算案を巡って政府と貴族院との対立も激しくなったことで、元老は大隈の続投を好まず、内閣は総辞職しました。
次の章では、大隈がお札になれない理由に迫っていきます!
大隈重信がお札になれない理由は?
前章までで見てきたように、大隈重信の功績は偉大なものです。
しかし、慶応義塾大学の創設者である福沢諭吉や伊藤博文らがお札になっても、大隈はお札になっていません。
「1万円札の顔」の後任は、大隈の部下であった渋沢栄一になることも決まっています。
大隈がお札になれずにいる背景として、彼が「政治家」であることが挙げられます。
伊藤が1000円札になることが決まった時、朝鮮半島の人々からすれば帝国主義侵略のシンボルとして思われるのではないか、という批判が起こりました。
この経緯があったこともあり、その後のお札の人物には文化人や教育者から選ばれるようになったのです。
つまり、政治家としての彼がお札になれるチャンスはかなり減ってしまったのです!
ちなみに、1990年代には、「5万円札」や「10万円札」の発行について議論が起こっており、大隈がお札になる可能性もあったのですが、こうした高額紙幣の発行は実現しませんでした。
そんな大隈ですが、記念貨幣の顔になったことがあります!
次の章ではこのことについて見ていきましょう。
大隈重信の500円貨幣が発行される?
実は記念貨幣に大隈の肖像は使われています。
それが、2010年に地方自治法施行60周年を記念して発行された1000円・500円記念貨幣の佐賀県版です。
次の「1万円札の顔」となる渋沢も、10万円札の顔として推されたり、埼玉県の記念貨幣に使われたりするなど、大隈と似た経緯を持っています。
彼もいつかお札になるのでしょうか。
次に、大隈が右足を負傷し切断した経緯について見ていきます。
大隈重信の右足切断の経緯
大隈は外務大臣を務めていた1889年に、襲撃を受けて負傷しています。
彼は不平等条約の改正交渉にあたっており、外国人判事を導入するという案が大日本帝国憲法に反するとされ、大きな批判を受けていました。
彼はその後も条約改正交渉の継続を主張しますが、彼を支持するのは黒田清隆首相と榎本武揚文部大臣のみでした。
そんな折、国家主義組織・玄洋社に所属する来島恒喜が爆弾により大隈の暗殺を試みます。
来島も大隈の条約改正案に反対していたのです。
大隈は一命をとりとめたものの、右足を大腿下三分の一で切断することとなりました。
なお、来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突いて自害しています。
次に、大隈が失った右足のその後と、彼の用いた義足について見ていこうと思います。
自分の右足をホルマリン漬けにして保管?
大隈が襲撃で負傷して失った右足は、ホルマリン漬けにして現在も保管されているようです!
大隈の菩提寺である、佐賀市の龍泰寺にあるといいます。
大隈はその右足を関係者に見せていたとも言われています!
義足で生活していた?
大隈は右足を失ったことで、義足を用いての生活を余儀なくされました。
この義足は早稲田大学の大学史資料センターと佐賀市の大隈記念館で見ることができるようです。
ホルマリン漬けの足や義足は現存しているのか?
ホルマリン漬けの右足は、当初は大隈家にあり、病院や早稲田大学を経て、現在は佐賀市の龍泰寺に存在します。
また、義足のほうも早稲田大学の大学史資料センターおよび佐賀市の大隈記念館で見ることができます。
次の章では、野球の始球式と大隈重信の関係について言及していきます。
野球の始球式で空振りするのは大隈重信が関係している?
野球の試合では、開始前に始球式が行われることがありますね。
ゲストの人物がボールを投げ、バッターは空振りするのが慣例となっています。
日本では、記録に残っている最古の始球式は、大隈重信によるものとされています。
この時大隈の投げたボールはストライクゾーンから大きくそれてしまいましたが、早稲田大学の総長であり政治家でもある大隈の投球をボール球にしてはいけないと考えた当時の打者は、わざと空振りしました。
これ以降、打者は投手に敬意を表するため、わざと空振りするようになったのです。
次の章からは、大隈重信ゆかりの地についてご紹介します!
大隈重信ゆかりの地
大隈重信ゆかりの地として、今回は①旧大隈重信邸、②大隈重信像のある早稲田大学、③大隈重信記念館、④大隈重信の墓の4か所をご紹介します!
まずは、旧大隈重信邸です。
旧大隈重信邸
旧大隈重信邸は、現在の神奈川県中郡大磯町にあります。
大磯町は保養・療養を目的として、伊藤博文や山県有朋、西園寺公望など、多くの著名人が別荘や邸宅を構えました。
大隈重信もそのうちの一人です。
旧陸奥宗光邸と隣接しているこの旧大隈重信邸は、庭に面する居室などが往時のままで保存されています。
しかし、特別なイベント時以外は非公開のようです。
次に、大隈重信像をご紹介します。
大隈重信像
大隈重信像は、早稲田大学早稲田キャンパス内に2体あります。
まず1907年に政治家としての大礼服姿の大隈像が制作され、現在大隈講堂内の回廊に設置されています。
次に1932年、ガウン姿で壮年期の大隈像が作られました。
右足を失ったあとの姿であり、杖をついています。
こちらの像は、高さがなんと298cmもあります!
次に、大隈重信記念館についてご紹介します。
大隈重信記念館
大隈重信記念館は佐賀市にある大隈重信の記念館です。
彼の生誕125周年を記念し、1966年に落成しました。
大隈と母の三井子、妻の綾子の3人が描かれた肖像画や、大隈が使用した義足などが展示されています。
また、敷地内には国の史跡に指定されている大隈の生家もあります。
最後に、大隈重信の墓についてご紹介します。
大隈重信の墓
大隈重信の墓は、東京都文京区の護国寺にあります。
明治の政治家たちの墓は大きな墓石で祀られていることが多く、大隈の墓もかなり大きいものとなっています。
次の章からは、大隈重信を知ることができる作品について見ていきます!
大隈重信を知ることができる作品
大隈重信の登場する作品は数多くありますが、今回はドラマ作品から3作品、小説から2作品をご紹介します。
まずは、NHK「連続テレビ小説」の『あさが来た』です。
朝ドラ「あさがきた」
『あさが来た』は2015年度下半期のNHK「連続テレビ小説」の作品です。
大阪を拠点に活動した実業家で教育者の広岡浅子をモデルとした白岡あさが主人公で、さまざまな困難を乗り越えていくあさと、その家族らを通して、社会に貢献するさまを描いています。
作中で大隈重信は、あさの情熱に関心を示し、女子大学校設立のために協力を約束しています。
演じるのは高橋英樹さんです。
次は、NHK大河ドラマ『いだてん』です。
大河ドラマ「いだてん」
『いだてん~東京オリンピック噺~』は2019年1月より放送中のNHK大河ドラマです。
日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年のストックホルムオリンピックから、1964年の東京オリンピック開催までの歴史を、「日本のマラソンの父」金栗四三と、日本水泳連盟元会長の田畑政治の2人の主人公をリレーする形で描いています。
大隈重信は柔道の創始者である嘉納治五郎と天狗倶楽部(野球愛好家の押川春浪が創設した私的団体)を引き合わせています。
平泉成さんが演じています。
次は、NHK大河ドラマ『西郷どん』です。
大河ドラマ「西郷どん」
2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』にも大隈が登場しています。
明治維新の立役者である西郷隆盛を「愛に溢れたリーダー」として描き出します。
明治新政府の民部大輔として登場する大隈重信は、尾上寛之が演じています。
次に、大隈について書かれている小説をご紹介します。
小説
大隈重信について書かれている小説について、2作品をご紹介します。
まずは、『風雲の人 小説・大隈重信 青春譜』(山崎光夫、2007年、東洋経済新報社)です。
題名の通り、大隈の青春時代がメインとして描かれています。
作者の山崎氏は、医学・薬学関係分野に造詣の深い人物です。
もう1作品は、『小説・大隈重信 円を創った男』(渡辺房男、2009年、文藝春秋)です。
こちらは、大隈が手がけた幣制改革にスポットを当てています。
新通貨「円」はどのようにして誕生したのか、そこに迫っていく作品です。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、大隈重信について振り返ってみます。
大隈重信は1838年に佐賀で生まれます。
幕末期にフルベッキに会って政治家になることを決意し、明治維新後は鉄道・電信の建設のほか、「大隈財政」を展開し地租改正や殖産興業政策を行います。
一時政府を離れますがその後復帰、外相として条約改正交渉に携わり、板垣退助と内閣を組閣するなど活躍します。
その後政界を引退するも再び復帰し、2度目の組閣を行い、第一次世界大戦に参戦しました。
彼の身長は180cmあり、これは歴代の総理大臣の中で最長身です。
晩年にはメロンの栽培に凝っており、1922年に胆石症により85歳で亡くなると、盛大な「国民葬」が執り行われました。
大隈の養子としては、早稲田大学初代校長となった英麿(のち大隈家を出る)と政治家として活躍した信常がおり、信常の子・信幸も政治家として活躍していましたね。
大隈重信には2人の妻がおり、2人目の妻である綾子は賢妻の誉れの高い人物で、長きにわたって夫を支え続けました。
大隈重信の功績としては、富岡製糸場の建設による殖産興業政策、自由民権運動の展開、早稲田大学の創設、内閣総理大臣としての活躍など、数多く挙げられます。
そんな大隈ですが、現在まで記念貨幣の顔になったことはあっても、お札の顔になることはできておらず、これには政治家がお札の顔に選ばれにくくなっているという背景があります。
大隈は外相時代、玄洋社の来島恒喜により襲撃を受けて負傷しており、この時切断した右足はホルマリン漬けにされて今も保存されています。
事件後大隈は義足をつけて生活していました。
大隈は初めて野球の始球式を務めたとされており、この時の打者がわざと空振りしたことから、「始球式では打者は空振りするものだ」という慣習が生まれました。
大隈重信ゆかりの地としては、旧大隈重信邸や大隈重信像のある早稲田大学、大隈重信、大隈重信の墓などがあります。
大隈重信について分かるドラマとしては、NHK「連続テレビ小説」の『あさが来た』、NHK大河ドラマの『いだてん』『西郷どん』、小説としては『風雲の人 小説・大隈重信 青春譜』(山崎光夫、2007年、東洋経済新報社)や『小説・大隈重信 円を創った男』(渡辺房男、2009年、文藝春秋)がありましたね。
大隈重信の残した功績はとても多いので、各時代における大隈像をじっくり眺めてみてください!