今回ご紹介するのは山県有朋です。
動乱の幕末期から軍事面において存在感を示し、明治維新後も長く政府の中心人物として活躍した山県、その影響力は死の直前まで衰えることはありませんでした。
- 山県有朋の生涯とは。
- 山県と西郷隆盛との関係とは。
- 山県の作り上げた庭園とは。
今回はこうした点について特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
目次
西郷隆盛との関係とは?
山県有朋と西郷隆盛は幕末期から交流があり、明治維新後も政府の中心人物として関わりがありました。
木戸孝允や大久保利通らが岩倉使節団に参加している間、西郷と山県は留守政府を任されます。
その留守政府内では、山県の望む徴兵制の実現には賛否両論がありましたが、西郷の協力のおかげで、彼は無事それを実現することができました。
また一時期、山県は山城屋事件という汚職事件に関与した疑いを持たれました。
彼に反抗的な薩摩出身の将校たちが辞職を迫り、彼は近衛都督と陸軍大輔の職を辞しています。
この時も、西郷は山県を庇い、慰留を求めていたのです。
次に、山県は西郷を尊敬していたのかについて見ていきます。
西郷隆盛を尊敬していた?
以上のような経緯があったことから、山県は西郷のことをとても慕っていたようです。
山県は後に「日本軍閥の祖」や「国軍の父」の異名を持つほど、軍事面で大きな功績を残しました。
そのような活躍ができたのも、西郷の支えがあったからこそと言えるかもしれません。
次に、西南戦争における山県と西郷両者について見ていきます。
西南戦争での山県と西郷
山県と西郷は、西南戦争の際には敵対してしまいます。
旧薩摩軍の籠る城山を包囲した際、山県は西郷に書状を送っています。
それは、この戦争が西郷の本心によるものではないことに理解を示しつつ、西郷に自決を促すという内容でした。
この書状への返事はなかったようですが、戦争が終わり、西郷の死を悼んだ山県は涙を流したと言われています。
次の章では、山県の別荘の一つである椿山荘(ちんざんそう)について見ていきます。
山県有朋の別荘について
山県は西南戦争において任務を完了し、その恩賞として年金を受け取り、別荘を購入します。
その別荘は、椿山荘(ちんざんそう)といいます。
山県は和歌や茶を好む風流人であり、椿山荘を購入するとその作庭に取り掛かっています。
なお、1918年には藤田財閥の藤田平太郎がこれを譲り受けています。
次に、彼が作庭したほかの庭園もご紹介します。
立派な日本庭園を作庭した?
前述のように、作庭は山県の趣味でした。
椿山荘の地形は起伏に富んだ豊かなものであり、山県の作庭を経て、独特な美しさを持った庭園となりました。
この椿山荘と、京都の無鄰菴(むりんあん)、小田原の古稀庵(こきあん)を合わせて「山縣三名園」と呼ばれます。
現在、椿山荘の敷地内には宴会施設やホテルも建てられています。
次に、現存する別荘をご紹介します。
現存する別荘
前章で少し触れた無鄰菴と古稀庵は、現存する山県の別荘です。
無鄰菴と名付けられた山県の別邸は3つあり、第一無鄰菴は長州に、第二・第三無鄰菴は京都にあります。
日露戦争前の1903年、第三無鄰菴において「無鄰菴会議」が行われており、山県と伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎が参加しています。
古稀庵は1907年に小田原に建てられたものです。
1909年にはこの地で歌会が開かれており、小説家の森鴎外が来訪しています。
現在は毎週日曜日に庭園が一般公開されています。
次の章では、山県の残した名言をご紹介します。
山県有朋の名言
山県の残した名言を2つご紹介します。
・「わしは一介の武弁である。」
これは山県の口癖のようで、国政に深く関与するようになってからも、謙虚さを忘れずに行動してきたと言えるでしょう。
「武弁」とは武士や武官といった意味です。
・「弱い羊だけが群がっている世の中など嫌だ。虎の寝そべっている野辺を突き進め。」
この言葉からは、軍人としての山県の、力強い生き様が伝わってくるようですね。
次に、山県の経歴を概説します!
経歴と年表
山県有朋は1838年、長州で生まれます。
吉田松陰の松下村塾で学んだ彼は、幕末期に高杉晋作や伊藤博文らとともに尊皇攘夷運動を展開、1863年には奇兵隊の監督となります。
奇兵隊は、高杉らが創設した軍隊であり、身分にかかわらず実力主義のもと構成されました。
翌年の下関戦争に参加するも、4国連合艦隊に敗れており、彼自身も負傷しています。
その後も藩政の中心におり、2度の長州征討や戊辰戦争に参戦しています。
明治維新後に渡欧し、海外の軍政を調査した彼は、帰国後に兵制改革を実行、徴兵令の制定に努めるなどします。
1873年には初代陸軍卿となり、佐賀の乱や西南戦争といった士族反乱の鎮圧に貢献しました。
また、1882年には内務卿として自由民権運動を弾圧したほか、1887年には内相として保安条例を公布しており、その2年後には内閣総理大臣となります。
日清戦争にも第1軍を率いて出征した彼は、「元帥」の称号を与えられ、陸軍の大御所として絶大な権力を手にしています。
1898年には2度目の組閣を行なっており、退陣後も元老として首相や重要政策の決定に関してその権力を保ちました。
老齢となってもその権力が失墜することはなく、日露戦争の作戦指導を行なったり、第2次大隈重信内閣に不信任を表明し退陣を促すなどしています。
1922年に彼は83歳で亡くなりました。
彼の死により、長年の薩長の藩閥支配はほぼ終了したと言われます。
それほど彼の存在は大きかったということですね。
次の年表もご覧ください。
年 | 出来事 |
---|---|
1838 | 長州で生まれる |
1863 | 高杉晋作らが奇兵隊創設、山県は監督となる |
1863・1864 | 下関戦争 |
1864・1866 | 長州征討 |
1868~1869 | 戊辰戦争 |
1869 | 西郷従道とともに渡欧 |
1870 | 帰国 |
兵部少輔となる | |
1873 | 初代陸軍卿となる |
1874 | 佐賀の乱 |
1877 | 西南戦争 |
1883 | 内務卿となる(~1885) |
1885 | 内務大臣となる(~1890) |
1887 | 保安条例公布 |
1889 | 内閣総理大臣となる(~1891) |
1894~1895 | 日清戦争 |
1898 | 内閣総理大臣となる(~1900) |
1904~1905 | 日露戦争 |
1922 | 薨去。享年83。 |
次に、山県の子孫を家系図とともにご紹介します。
子孫と家系図について
山県には7人の子どもがいましたが、次女・松子を除いて夭折してしまいました。
そのため、甥の伊三郎を養子として迎えました。
伊三郎は枢密顧問官や逓信大臣、徳島県知事として活躍した人物です。
また、伊三郎の孫・有信は栃木県矢板市長を務めました。
次に、山県のお墓についてご紹介します。
墓について
彼のお墓は、現在の東京都文京区にある護国寺にあります。
また、同じく文京区にあり、彼の別荘であった椿山荘(ちんざんそう)は、現在は宴会施設やホテルを擁する庭園となっています。
次に、山縣有朋記念館についてご紹介します。
山県有朋記念館について
山縣有朋記念館は、栃木県矢板市の山縣農場の敷地内にあり、1999年に開館しました。
天皇家より賜った貴重品や、下関戦争から第一次世界大戦まで、彼が関わった戦争の陣営具、彼の着ていた軍服などが展示されています。
また資料として、山県の書簡や手記など、およそ1500点が収蔵されています。
次の章からは、山県について分かる作品をご紹介します!
山県有朋について分かる作品
近代日本を代表する人物である山県は、この時代を扱ったさまざまな作品に登場しています。
NHK大河ドラマだけでも、1967年の『三姉妹』、1977年の『花神』をはじめとして、8作品に登場しているのです。
今回ご紹介するのは、3つの映画及びドラマの作品です。
るろうに剣心
まずは『るろうに剣心』(2012年、ワーナー エンターテイメント ジャパン)です。
これは和月伸宏氏による漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』を原作として作られた実写映画です。
主人公の緋村剣心は、凄腕の暗殺者であり、「人斬り抜刀斎」の通り名を持つほどでした。
しかしその後彼は人を殺さないという誓いをし、10年の歳月を経て明治11年となります。
東京では新型阿片の密売問題や辻斬り問題があり、剣心はこれらの事件に巻き込まれていくこととなるのです。
山県は警察の人間として登場し、剣心に阿片捜査の協力を頼んでいますが、剣心はこれを断っています。
山県を演じるのは奥田瑛二です。
なお、2014年には第2作『るろうに剣心 京都大火編』と第3作『るろうに剣心 伝説の最期編』が連続公開されていますが、これらには山県は登場していないようです。
八重の桜
次は、NHK大河ドラマ『八重の桜』(2013年)です。
主人公は、会津藩出身で新政府軍との戦いで自ら銃を手に取り、のちに同志社を設立した新島襄の妻となる、八重という女性です。
会津と新政府との戦いと敗北に始まり、その後舞台は八重の兄のいた京都に移ります。
八重は幕末から昭和初期の激動の時代を生き抜いた人物であり、山県と同じく長命でした。
作中では、山県は会津人を「賊徒」と見下しており、会津と敵対する関係にあることが強調されています。
彼を演じるのは猪野学です。
西郷どん
最後は、こちらもNHK大河ドラマである『西郷どん』(2018年)です。
主人公は西郷隆盛で、時代を切り拓いた「愛に溢れたリーダー」としての西郷像が描かれています。
山県は汚職事件による更迭が描かれますが、西南戦争では新政府軍の指揮をとっています。
城山での攻防戦では、西郷に対し幸福を要請しました。
山県を演じるのは村上新悟です。
まとめ
いかがでしょうか。
それでは、山県有朋についてもう一度振り返ってみましょう。
山県は1838年に長州で生まれました。
1863年には奇兵隊の監督となり、長州征討や戊辰戦争に参戦します。
明治維新後渡欧し、帰国後陸軍卿や内相を歴任し、内閣総理大臣も2度務めています。
日清戦争にも第一陣を率いて参戦しており、「元帥」の称号を得て政界に大きな影響力を持つようになります。
2度目の内閣から退陣したのちも元老としてその影響力を保ち続けた彼は、1922年に83歳で亡くなりました。
山県と西郷は幕末期から交流があり、山県は汚職の嫌疑がかかった時も自らをかばってくれた西郷のことを慕っていたようです。
西南戦争の最後の戦いである城山攻防戦では、山県は西郷に自刃を勧める書状を送っており、西郷の死を知った彼は涙を抑えられなかったと言われています。
山県は作庭が趣味であり、椿山荘と京都の無鄰菴(むりんあん)、小田原の古稀庵(こきあん)を合わせて「山縣三名園」と呼ばれています。
椿山荘の敷地内には、現在宴会施設やホテルなども併設されています。
山県の名言としては、「わしは一介の武弁である。」や「弱い羊だけが群がっている世の中など嫌だ。虎の寝そべっている野辺を突き進め。」がありましたね。
山県のお墓は、現在の東京都文京区にある護国寺にあります。
山県の養子である伊三郎は徳島県知事などを務め、伊三郎の孫も栃木県矢板市長を務めました。
その矢板市には山縣有朋記念館があります。
山県の登場する作品としては、『るろうに剣心』(2012年、ワーナー エンターテイメント ジャパン)、NHK大河ドラマ『八重の桜』(2013年)、同じくNHK大河ドラマ『西郷どん』(2018年)などがありましたね。
ぜひ一度鑑賞してみてください!