今回解説していくのは初代新撰組局長である芹沢鴨!
彼は最終的に素行の悪さから暗殺されることになりますが、今回はそんな芹沢鴨について
- 芹沢鴨が暗殺された理由と犯人について
- 芹沢鴨の生涯と年表
- 芹沢鴨の家紋と辞世の句と写真
などについて詳しく解説していきたいと思います!
目次
芹沢鴨暗殺の真実!
壬生浪士組の局長となって浪士たちを率いた芹沢鴨。
彼は剣の腕前はトップクラスなものだったそうです。
ただ、酒が入ってしまうととても癇癪持ちとなってしまい、度々店の設備を破壊しまくっていたという記録が残っています。
また、乱闘騒ぎも多く、大和屋が攘夷志士にお金を支援してきたことをききつけると大和屋を襲撃してことごとく破壊。
さらに力士と一悶着があった時には力士を斬りつけて大怪我を負わせたとも言われています。
このような狼藉が相まって浪士組の人たちが暗殺をしたというのが一般的です。
しかし、他にも浪士組の中に芹沢鴨をはじめとする水戸派と近藤勇をはじめとする試衛館派の派閥の対立があり、それが原因で暗殺したとも言われています。
犯人は新選組?会津藩の命令?
こうして徐々に粗野な行動が目立ってきた芹沢鴨。
これに頭を抱えていたのが浪士組を預かっており、実質的な上司であった松平容保でした。
1863年に芹沢が関係を結ぼうとした芸妓が頑なに拒否したことに激怒してしまい、芸妓の髪を断髪させる狼藉を行い、さらには浪士組15人を率いて攘夷派の公家である有栖川宮熾仁親王に仕えるために申し出るなどの独断行動も目立っていきます。
これについにキレた朝廷は芹沢を逮捕するように命令を下し、京都守護職の松平容保は近藤勇に対して芹沢の処置を任せたと言われています。
しかし、松平容保が確実に芹川の処置を命令したという確証はなく、果たして新撰組が自らやったのか、はたまた松平容保が命令したのか真相は闇の中です。
当時の現場の様子
1863年9月16日、この日は雨だったそうですが芹沢鴨は、腹心であった平山五郎と郷里芹沢家以来の家来・平間重助とともに席を立ち、屯所のある壬生に戻っていました。
そして芹沢は島原にて芸妓たちと宴会を開き、さらには八木の邸宅でも同じように宴会を催します。
こうして芸妓たちとどんちゃん騒ぎした芹沢は宴会が終わるとあっさり泥酔し、八木邸にて一夜を過ごそうとしました。
そして深夜となり、深い眠りについた芹沢。
この時芹沢とともにお酒を飲んでいた土方歳三は彼が完全に寝ていることを確認するとそっと出ていき、表で控えていた襲撃グループと共に突入する指示を出しました。
玄関から侵入した土方を始めとする襲撃グループ。
一気に芹沢が寝ている寝室に入り、同室にて寝ていた平山を斬り、さらに芹沢にも襲いかかります。
驚いた芹沢は刀を持って応戦しようとしますが、酒が入っていたことがここで裏目に出てしまい、芹沢は襲撃グループによってズタズタに斬られてしまいました。
その後暗殺された芹沢鴨は長州藩の攘夷志士によって暗殺されたと公表され、暗殺された2日後に盛大な葬儀が執り行われました。
こうして新撰組は近藤勇を局長として新しい道を歩みだすことになるのでした。
道連れになった愛妾のお梅
芹沢暗殺の時、実はこの当時宴会に付き添っていた芸妓たちも巻き込まれてしまいます。
暗殺された時芹沢には愛妾であったお梅という女性を含めて3人の女性と共に寝ていました。
お梅という女性は元々京都四条堀川町の問屋の妾でしたが、借金取りとしてやってきた時に芹沢の妾となってしまいます。
そして、暗殺された当時もお梅はそばで寝ていたのですが、この時襲撃グループによって芹沢とともに斬られてしまいます。
その様子も凄まじいもので、首の皮が一枚繋がっている状態で死んでいたと言われています。
その後芹沢は長州藩士がやったというこじつけもあって壮大に葬られることになるのですが、妾であったお梅は芹沢とともに埋葬される案が近藤勇によってなしとなり、お梅は無縁仏として葬られたとも、お梅の故郷である西陣に引き取らせたともいわれています。
新選組初代局長芹沢鴨の生涯
芹沢鴨は1832年に水戸の芹沢村にて常陸平氏の末裔である芹沢貞幹の三男として生まれます。
芹沢鴨の前半生はよくわかっていませんが、芹沢鴨は故郷水戸にて攘夷活動をしていた天狗党の一メンバーとして加わり、攘夷活動を行なっていたと言われています。
しかし、天狗党は尊王攘夷派と言いながらその実態は狼藉を働いたりするなど傍若無人な無頼の徒出会ったこともあり、天狗党のメンバーは捕縛され、芹沢鴨も一時は処刑される一歩手前まで追い込まれてしまうことになりました。
しかし、幕末の混乱もあってか運良く釈放。
その後は江戸にて浪士の募集をしていた清河八郎のもとで京都にて浪士として参加。
清河八郎が本当は倒幕するということが発覚すると京都に残留して近藤勇と共に壬生浪士組を結成。
局長の一人として活躍していき、京都の攘夷志士の取り締まりに注力するようになりました。
しかし、乱暴な素行が相まってか、やがてこの行動を問題視した近藤勇によって暗殺されてしまいました。
経歴と年表
1827年 常陸芹沢村で芹沢貞幹の三男として生まれる
1861年 攘夷決行のために活動していたとして入獄 死刑となるが恩赦される
1863年 壬生浪士組に参加する
1863年2月 京都に残った浪士組の一因となる
1863年8月 生糸問屋の大和屋が攘夷志士を援助していたとして焼き討ち
1863年9月 八木邸にて襲われ暗殺
写真
江戸時代も末期になると写真が日本に伝来し、偉人の様子を克明に記録できるようになりましたが、芹沢鴨にも写真が一応残されています。
しかし、西郷隆盛の写真や沖田総司の写真は現在では偽物であったとよく言われているため、芹沢鴨のあの写真が確実に彼の姿を表したものとは言えません。
参考程度にするのが一番ベストだと思います。
家紋
芹沢鴨が使っていた家紋は揚羽蝶だと言われています。
揚羽蝶の家紋は平氏が使っていたことでも有名なんですが、実は芹沢は常陸平氏の子孫である大掾氏の一族出身だと言われており、そのため平氏の家紋である揚羽蝶を使っていたのです。
辞世の句
『雪霜にほどよく色のさきがけて 散りても後に匂う梅が香』
「梅という花は雪や霜の頃に他の花よりも早く色鮮やかに花を咲かせる。そして梅は花が早く散ってもその香りを残すものなのだ。」
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです!
- 芹沢鴨は元々天狗党という組織に所属していたが、のちに清河八郎の浪士組に参加して、初代新撰組の局長となった
- 芹沢鴨は剣の腕前は一流であったが、酒癖の悪さなど素行不良から暗殺されたという説や、新撰組の派閥争いによって暗殺されたという説がある
- 芹沢鴨の妾であったお梅は芹沢鴨が暗殺された時に殺されてしまった
- 芹沢鴨は常陸平氏の末裔であり、揚羽蝶の家紋を使っていた
最後になりましたが、芹沢鴨は性格自体は気さくで良かったのですが、素行の悪さから顰蹙を買ってしまい、最終的には暗殺されてしまいました。
皆さんも、是非とも素行は良くしてくださいね。