今回ご紹介するのは、山南敬助です。
幕末期に大きな存在感を示し、現在も多くの小説やドラマにより語り継がれている新選組における、一人の男の生涯に迫ります。
- 山南敬助の生涯とは
- なぜ脱走したのか
- 恋人との悲しいエピソードとは
今回はこうした点について特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
山南敬助の生涯と最期!
山南敬助は、1833年に生まれたと言われています。
彼の出自ははっきりしておらず、仙台藩を脱藩して江戸に出たとか、沖縄か九州からの移住者だとか、いくつかの説が出ています。
江戸における剣術の他流試合で、のちに新選組局長となる近藤勇に敗れると、彼の腕前や人柄に惹かれ、彼を慕うようになります。
近藤のいた道場には、のちに新選組幹部となる土方歳三・沖田総司・永倉新八らがいました。
1863年に、将軍警護と尊皇攘夷を目的とした浪士組が京都で結成されると、山南は近藤らとともにこれに加わります。
のちに組織は江戸へ帰還する者と京都に残る者とに分かれ、山南や近藤たちが残った組は壬生浪士組を名乗るようになりました。
この壬生浪士組が、新選組の母体となります。
そして、山南は壬生浪士組の副長となるのです。
壬生浪士組は会津藩預かりの組織であり、不逞浪士の取り締まりを専門としていました。
1863年の10月には、呉服商に不逞浪士数名が押し入る事件が起きており、山南は土方歳三と現場に駆けつけ、不逞浪士を撃退しています。
ここでの戦闘は激しかったようで、山南が使った刀は折れてしまい、彼自身も左腕を負傷したと伝えられています。
また、八月十八日の政変(公武合体派が、長州藩を中心とした尊皇攘夷過激派を追放したクーデター)の際には、山南は御所警護に加わっており、長州系浪士を斬っています。
山南は組織の総長となり、局長・近藤勇、副長・土方歳三に次ぐ地位を獲得しました。
しかし、その後の一定期間、新選組の活動記録から彼の名は消えてしまいます。
病気を患っていたとも言われていますが、はっきりとした事実は分かっていません。
再び彼が登場するのは、1865年の2月のことです。
なんと彼は、「江戸へ行く」という置き手紙を残し、行方をくらませてしまったのです!
新選組の掟では脱走は切腹とされており、沖田総司が直ちに追っ手として差し向けられました。
そして、滋賀の大津で捕まった山南は、新選組の屯所へ連れ戻されました。
1865年2月23日、沖田の介錯のもと、山南は切腹し、果てました。
下に年表を載せますので、そちらもご覧ください。
次の章では、山南が愛用していた刀について見ていきます!
経歴と年表
年 | 月 | 出来事 |
---|---|---|
1833年 | 山南敬助誕生か。 | |
1861年 | 1月 | 沖田総司とともに小野路に剣術教授に出張。 |
1863年 | 2月 | 清河八郎が浪士組を組織、山南これに参加。 |
土方歳三らとともに壬生浪士組の副長となる。 | ||
8月 | 八月十八日の政変、長州系浪士を斬る。 | |
新選組総長になる。 | ||
10月 | 呉服商に不逞浪士が押し入る、これを撃退。 | |
1865年 | 2月 | 行方をくらます。 |
大津にて捕縛。 | ||
切腹し果てる。享年33。 |
愛用していた刀
呉服商に不逞浪士が押し入った事件に、山南は駆けつけており、そこで激しい戦闘を繰り広げました。
彼の刀は、「播州住人赤心沖光作」の銘が入った、長さ約86センチメートルのものでした。
この刀が、激しい戦闘により、切っ先から30センチメートルのところで折れてしまいました!
この刀の形を紙に写し取った「押し型」は、土方歳三の手によって新選組支援者の名主の元へ送られます。
この押し型の模写は、現在も東京都町田市にある小島資料館で見ることができます。
次に、山南のお墓について見ていきます。
墓について
山南敬助のお墓は、京都市の光縁寺という所にあります。
山南と当時の光縁寺住職との間には親交があり、山南以外にも、屯所で切腹した隊士たちがここで弔われています。
また、同じく京都市にある旧前川邸では、2007年から年一回、山南を弔う「山南忌」が行われています。
次に、山南家の家紋について見ていきます。
家紋について
山南家の家紋は、「丸に右離れ三つ葉立葵」です。
この家紋は、光縁寺の寺紋と同じだったようで、それもあって山南と光縁寺住職は親しくなったそうです。
次の章では、山南が脱走した理由に迫ります!
山南敬助脱走と切腹の理由や真相
新選組の掟では、脱走は切腹と決められていました。
彼自身もそのことは心得ていたはずですが、なぜ脱走を実行したのでしょうか。
脱走の要因には諸説あるのですが、そのうちの一つが屯所の移転問題です。
新選組は隊士が増えたことから、屯所を西本願寺に移転しました。
西本願寺は、勤王の気風が強く、また長州藩主毛利家とも近い関係にありました。
近藤勇は、あえてこの西本願寺に屯所を移すことで、将来を見据えてこの地を抑えようと考えていたのです。
しかし、山南自身は勤王の志が強かったため、この屯所移転に強く反対しました。
そんな山南の意見に対し、近藤らは全く取り合わなかったこともあり、山南は新選組と決別することを考えるようになったと言われています。
なお、この説は当時の西本願寺の侍臣(君主のそばに仕える家来)であった西村兼文の話に拠るものです。
次の章では、山南の恋人との悲しいエピソードについて見ていきます。
山南敬助が愛した恋人明里との関係
明里(あけさと)という女性は、山南の恋人であった芸妓です。
山南が切腹する直前、二人は格子を挟んで言葉を交わします。
その後人が来て、明里を連れ去ろうとしますが、彼女が格子をつかんで離れようとしなかったため、山南は自分でその格子戸の障子を閉じてしまいました。
それから程なくして、山南は切腹しました。
これは「格子戸の別れ」として有名なのですが、新選組幹部の永倉新八の残した手記には彼女の名前は出てこないので、創作の可能性が高いと言われているのです。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、山南敬助について振り返ってみましょう。
出自に謎の多い山南は、1833年に生まれたとされています。
江戸における剣術の他流試合で近藤勇に負けて以来、彼を慕うようになります。
1863年には近藤とともに浪士組に参加、その後彼は壬生浪士組の副長となります。
彼はのちに新選組総長となっており、呉服商への不逞浪士の押し入り事件や、八月十八日の政変などで活躍しました。
しかし、1865年に脱走し、新選組の掟により、捕縛後に切腹して果てました。
脱走の理由は、新選組の屯所が勤王色の強い西本願寺に移転したことに端を発すると言われています。
彼の愛用していた刀は、不逞浪士との激闘により折れてしまっており、それをかたどったものの模写は現在も小島資料館で見ることができます。
彼のお墓は京都市にある光縁寺にあり、その寺紋と山南家の家紋が同じであったことから、彼は当時の住職と親交があったと言われています。
また、彼には恋人として明里という女性がおり、切腹の直前まで言葉を交わしていたようです。
この「格子戸の別れ」が本当にあったのかは分かりません。
彼についての新事実の発見に期待しましょう!