今回ご紹介するのは、武市半平太です。
尊皇攘夷か公武合体かで揺れた幕末日本において、大きな存在感を放った藩の一つが土佐藩です。
その土佐藩で生まれた土佐勤王党は尊皇攘夷を掲げ、一時土佐藩政の主導権を握るまでになります。
土佐勤王党を結成した武市半平太の、激動の人生に迫ります。
- 武市半平太の生涯とは
- 坂本龍馬や岡田以蔵との関係とは
- 武市半平太は吉田東洋暗殺の黒幕だったのか
今回はこのような点を特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!
目次
武市半平太の三文字切腹で終えた生涯とは?
武市瑞山とも呼称される人物である武市半平太は、1829年に土佐で生まれました。
彼は剣術に秀でており、1855年に土佐で道場を開くのですが、この道場に集まった人々がのちに結成される土佐勤王党の母体となるのです。
その翌年に江戸へ出て、桃井春蔵という剣術家の道場に入門すると、彼に見込まれてこの道場の塾頭となります。
約2年後には土佐に戻りました。
土佐藩主・山内豊信が将軍継嗣問題で幕府により隠居・謹慎を命じられると、土佐藩士はこの処遇に憤り、尊皇攘夷の機運を高めていきます。
そして1861年、半平太は土佐勤王党を結成し、坂本龍馬はその筆頭加盟者となります(龍馬はのちに脱藩します)。
彼らは、当時藩政改革を行っていた吉田東洋を暗殺し、土佐勤王党は実質的に藩政の主導権を握ります。
しかし、山内容堂(隠居した豊信)の思想は、尊皇攘夷と対極にある公武合体(朝廷・幕府・藩を結びつけて幕藩体制の再編をはかる政策論)にあったため、尊皇攘夷派である土佐勤王党の弾圧に乗り出します。
半平太は投獄されますが、彼は上士(家格の高い武士)であったためはじめ拷問を受けることはありませんでした。
しかし、彼を取り巻く環境は悪化していき、彼は拷問を受けたらこれに耐えかねて吉田東洋の暗殺などを自白してしまうことを危惧し始めます。
彼はそれでも容疑を否認し続けたため、業を煮やした容堂により切腹を命じられます。
彼は今まで誰もなしえなかったとされる三文字割腹の法を用い、腹を三度かっさばいた後、介錯人に心臓を突かれて絶命しました。
37歳でした。
次に、半平太の別名や家紋、家系図や子孫について見ていきます。
別名は?
武市半平太は、武市瑞山(ずいざん)と呼称されることも多い人物です。
家紋
武市半平太の家紋は、丸に柿の花です。
柿は昔から食用とされてきましたが、家紋としての採用は珍しいようです。
以下の画像が彼の家紋です。
家系図
武市正恒ーーー(大井氏)
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武市半平太ーーー富子
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武市半太ーー◯
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武市楯夫?
子孫について
半平太には実子がいませんでした。
そのため、甥の子である半太が養子となりました。
また、中央大学法学部の教授であった武市楯夫は、半平太の子孫であると公言していたようです。
次に、半平太のお墓や像について見ていきます。
墓について
半平太の墓は妻の富子の墓とともに、現在の高知市にあります。
彼の旧宅とともに、国の史跡に指定されています。
また、彼の旧宅の近くには、彼を祀る瑞山神社というものがあります。
武市半平太の像
高知県須崎市に、武市半平太の像があります。
この像は昭和54年に建設されており、像の後ろの石碑には、半平太とともに活躍した幕末の志士たちの名前が刻まれています。
高さはおよそ3mで、海の近くに建てられています。
次に、半平太が詠んだ辞世の句の意味に迫ります!
辞世の句の意味とは?
武市半平太の辞世の句は、次のものです。
「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
現代語に訳すと、
「返ることのない歳月をはかないと思ったこともあったが、これから死ぬのだから、もう過去のことなど惜しむ必要はない」
出典:(Tactical Media 武市半平太 最後の言葉〜辞世の句 より)
といった具合です。
激動の時代を駆け抜けた志士としての、半平太の生き様が伝わってくるようですね。
次の章では、半平太と坂本龍馬との関係について見ていきます!
坂本龍馬との関係
半平太と坂本龍馬は、縁戚関係にありました。
半平太が土佐勤王党を結成し同志を募り始めると、龍馬は土佐におけるその筆頭加盟者となります。
その後、薩摩藩の島津久光が2000の兵を引き連れて上京するという報を受けました。
半平太と関係の深かった長州の久坂玄瑞らは、これを攘夷のための挙兵と解釈しており、半平太に脱藩と薩摩の「挙兵」への参加を勧める声もありました。
これに対し半平太は、あくまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと唱え、脱藩しないように促します。
しかし、半平太の意見に納得しない者も多く、龍馬もこのタイミングで脱藩してしまいました。
龍馬の脱藩について半平太は、「龍馬は土佐の国には収まりきらぬ奴。広い処へ追い放してやった。」と語ったそうです。
その後は両者は別々の道を歩み、龍馬も1866年に薩長同盟の盟約を結ぶことに貢献するなど活躍しました。
次に、半平太と岡田以蔵との関係について見ていきます!
岡田以蔵の関係
半平太が土佐で道場を開いた時、その門弟の一人であったのが岡田以蔵でした。
半平太が江戸へ出る時は一緒に行っており、彼が土佐に戻ると彼も戻っています。
その後土佐勤王党に参加しており、半平太とは長く関わりのあった人物です。
岡田以蔵は、「幕末の四大人斬り」のうちの一人とされている人物です。
坂本龍馬が以蔵を、勝海舟の護衛役とした時期があるのですが、この頃海舟が3人の浪士に襲われた際、以蔵はその3人を一刀のもとに斬り捨てたとも言われています。
しかし彼はお酒に溺れてしまい、同志から借金を繰り返していたようで、そのうち同志たちとも疎遠になります。
1864年に、商家への押し借りで逮捕されると、その後土佐へ送られます。
その頃は土佐勤王党の同志たちが多く逮捕されていた時期であり、彼もその一人として拷問を受けました。
拷問に耐えかねた彼は自白し、その自白により新たな逮捕者も出たと言われています。
ちなみに、彼は女性も耐えた拷問を受けて泣き喚いたと言われており、半平太に「日本一の泣きみそ(泣き虫)」と酷評されてしまいました。
次に、半平太の妻・富子はどのような人物で、半平太の死後はどのように暮らしていたかについて見ていきます。
武市半平太の妻トミ子とは?
武市富子は、高知藩郷士・島村雅風の長女として1830年に生まれました。
彼女が半平太に嫁いだのが1849年のことです。
1863年に半平太が投獄された後の事で、彼女の気丈さが伺えるエピソードがあります。
彼女は夫と苦しみを分かち合うため、半平太が投獄されて以来、ずっと板の間で寝て畳では眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたのです!
そんな彼女の行動も虚しく、半平太は1865年に切腹させられました。
武市半平太の死後はどのように生活していたのか?
半平太が切腹となると、富子は家財を没収されて、とても困窮した暮らしを余儀なくされました。
そのため、内職をして暮らしをたてていたようです。
半平太との間に子どもはいなかったため、半太を養子として迎えると、東京に一度引っ越しますが、1912年には半太とともに土佐に戻っています。
長寿であった彼女は1917年、86歳で亡くなりました。
次の章では、半平太は吉田東洋暗殺の黒幕であったのかどうか、検証していきます!
武市半平太が吉田東洋暗殺の黒幕は事実?
武市半平太は、吉田東洋暗殺の黒幕でした。
ただ、彼は当初、穏当な手法で東洋を排斥しようと考えていました。
しかし、「東洋さえいなければ他の者は一事に打ち潰せる」という土佐藩家老の言葉を受け、彼は東洋暗殺を決断したのです。
そして、半平太の指令を受け、土佐勤王党の3人が吉田東洋を殺害したのです。
当の家老は土佐勤王党に自重を促しつつ、土佐勤王党を庇護していた人物とともに政権につきました。
この結果、彼らを通じて、土佐勤王党は実質的に藩政の主導権を握ったのです。
次の章では、半平太が出ているドラマをご紹介します。
武市半平太が出ているドラマ
武市半平太が登場するドラマは過去に多数作られています。
以下は、2000年以降のテレビドラマで、彼が登場する作品です。
- 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇)
- 『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ)
- 『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ)
- 『サムライせんせい』(2015年、テレビ朝日金曜ナイトドラマ)
次の章では、このうちの『龍馬伝』について見ていきます!
龍馬伝
『龍馬伝』は2010年のNHK大河ドラマの作品で、主演の坂本龍馬役を福山雅治、武市半平太役を大森南朋が演じるほか、伊勢谷友介や香川照之らが出演しています。
この作品は、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の視点から、坂本龍馬の生涯を描いたものとなっています。
武市半平太も、龍馬と関わりのある人物として大きな役割を果たしており、半平太の妻である富子も出演しています。
この作品は、大河ドラマとして3年連続となる、エランドール賞の作品賞を受賞しています。
次の章では、半平太が描かれている小説をご紹介します。
武市半平太について描かれている小説
武市半平太が描かれている小説としては、『雨に添う鬼 武市と以蔵』(秋山香乃著、2010、講談社)があります。
ライトノベルのような表紙が特徴のこの作品は、半平太と岡田以蔵をメインキャラクターに据え、彼らの激動の人生を描き出しています!
ぜひ手にとってみてください!
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、武市半平太について振り返ってみます。
1829年に土佐で生まれた武市半平太(瑞山とも呼称される)は、剣術に優れた人物であり、彼の開いた道場には岡田以蔵もいました。
坂本龍馬とは縁戚関係にあり、半平太が1861年に土佐勤王党を結成すると、龍馬は土佐における筆頭加盟者となります。
龍馬はその後脱藩し、半平太とは異なる道を歩んでいきましたね。
半平太の指令のもと、当時土佐の藩政改革を行なっていた吉田東洋を3人の志士が暗殺し、その後土佐勤王党は藩政の主導権を握りました。
しかし、公武合体派である先の藩主・松平容堂により、土佐勤王党は弾圧され、半平太も捕縛されます。
以蔵も逮捕されており、彼は拷問に耐えかねて自白してしまいます。
半平太は沈黙を保ち、業を煮やした容堂により、切腹を命ぜられます。
彼は辞世の句として、「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」と詠み、三文字割腹の法により切腹しました。
彼のお墓は高知市に、妻の富子の墓とともにあり、また高知県須崎市には彼の銅像もあります。
彼には実子がいなかったため、甥の子どもである半太が養子となっており、また中央大学法学部教授であった武市楯夫は半平太の子孫であると公言していたようです。
半平太の妻である富子は、半平太が獄中にある際、彼と苦しみを分かち合うために厳しい生活を自らに課しており、彼の死後は家財を没収されて苦しい生活を余儀なくされますが、86歳という長寿を全うしています。
半平太が登場するドラマとしては『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ)があり、また彼が登場する小説としては『雨に添う鬼 武市と以蔵』(秋山香乃著、2010、講談社)があります。
今後の土佐藩含めた雄藩の動きにもぜひご注目ください!