今回解説していくのは薩摩藩の家老として大活躍した小松帯刀!
彼がいなかったら明治維新は無かったかもしれないともいわれる人物です。
今回はそんな彼について
- 小松帯刀の功績について
- 小松帯刀の業績と生涯
- 小松帯刀と坂本龍馬や西郷隆盛との関係
- 小松帯刀の死因と子孫について
- 小松帯刀のエピソード
などを詳しく解説していきたいと思います!
目次
小松帯刀は明治維新の立役者
西郷隆盛や大久保利通などがよく明治維新の立役者として知られています。
ですが、世の中にはその人たちの陰に隠れながらも明治維新を成し遂げるために奔走した立役者がいました。
今回解説していく小松帯刀もそんな明治維新の功労者の1人であり、
- 彼がいなかったら明治維新は成し遂げることができなかった
- 彼が35歳で若死にしなかったら明治政府は大きく違った歴史を歩んでいた
とも言われています。
そんな彼の二大事業が、
- 薩摩藩の改革
- 版籍奉還の実施
小松帯刀は1861年に薩摩藩主島津久光の側近となると大久保利通とともに薩摩藩の改革を断行。
薩英戦争を通してイギリスの力が強大だということを知ると前藩主島津斉彬が創始した集成館を再興させ、蒸気船機械鉄工所の創始に尽力。
薩摩藩の藩政をリードして薩摩藩を日本屈指の大藩にさせていきました。
さらに、小松帯刀はこれからは日本を中央集権国家にしなければならないと痛感しており、大久保利通に対して版籍奉還の実施を打通。
版籍奉還とは全ての土地と人民を天皇のもとに返すというものでしたが、そうすると藩主からの反抗を受けてしまう可能性もあります。
小松帯刀はこの版籍奉還の実現のために奔走します。
ですが、この頃から病気がちとなり明治3年に病状が徐々に悪化。
大久保利通や木戸孝允らが見舞いに来る中7月20日に35歳の若さでこの世を去りました。
薩長同盟のお膳立てもしている影の功労者
倒幕が一気に進むことになった薩長同盟。
この同盟は坂本龍馬や中岡慎太郎などの尽力によってなされたものだと思われています。
しかし、実は小松帯刀もこの薩長同盟の締結のために尽力した人物だったのです。
実は小松帯刀と坂本龍馬は京都にて出会ってからの仲良し。
彼は坂本龍馬が建てた商社である亀山社中の設立の援助を行ったり、龍馬の妻であるお龍の世話もしています。
さらに小松帯刀は長州藩のためにも尽くし、
- 禁門の変の後に行われた第一次長州征伐の際には長州藩の降伏を取り付ける
- 長州藩士の伊藤俊輔(伊藤博文)や井上馨とイギリス人商人グラバーと引き合わせ、薩長同盟の交渉を引き出す
ということもしていました。
そもそも、薩長同盟が結ばれた場所が小松帯刀の邸宅だということもあり、小松帯刀は薩長同盟にいかに尽力していたのかがわかります。
小松帯刀の功績と年表
1835年 薩摩藩士であった肝付兼善の三男として生まれる。
1855年 薩摩藩の奥小姓となり、江戸にて働く
1861年 長崎出張を経て薩摩藩の家老になる
1866年 薩長同盟成立
1867年 薩土協約や四侯会議など諸藩の交渉に尽力
1869年 版籍奉還の実施を大久保利通に通達。
1870年 35歳で死去
死因について
小松帯刀は生まれつきの病弱だったこともあり、大政奉還後の激務に耐え切れることができず明治維新後には度々病気となってしまいます。
例えば小松帯刀は足痛を患っており、度々温泉に入って病気を改善していたこともあり、明治元年には医師のボードウィンが左下の腹部に大きな腫瘍ができていると診断。
さらにこの腫瘍は切除不可能だと告げます。
最後には持病であった肺病が悪化。
当時不治の病であった肺結核によってこの世を去ってしまったのです。
子孫は?
小松帯刀には息子がおり、さらに孫である小松重春は経国銀行という銀行のトップにつくなど実業家として成功を収めます。
しかし、この小松重春の代で跡継ぎとなる子供がいなかったため断絶。
しかし、初代海軍大臣である西郷従道の七男である西郷従志が養子となって家督を継続。
その家系が現在まで繋がっています。
坂本龍馬との関係は?
坂本龍馬が行った薩長同盟ですが、この同盟は小松帯刀と坂本龍馬が非常に仲が良かったから成し得たものだと思います。
2人の出会いは1864年。
この時神戸に置かれていた海軍操練所の塾生であった坂本龍馬を小松帯刀が大坂の薩摩藩邸に引き取ったことが始まりでした。
その後、坂本龍馬の才能を見抜き小松帯刀は彼が設立しようとした亀山社中の援助や、お龍の世話などを行うなど積極的に彼をサポート。
さらには坂本龍馬が成し遂げようとした薩長同盟のために薩摩側として奔走するなど尽力し、この薩長同盟が成し得たのでした。
ちなみに、坂本龍馬も彼の能力を絶賛しており、明治新政府が樹立された時の人事構想では彼をトップに挙げたんだそうです。
西郷隆盛との関係は?
小松帯刀は薩摩藩の重臣として活躍していくのですが、そんな彼が後ろ盾となったのがあの西郷隆盛でした。
小松帯刀と西郷隆盛の関係を表すエピソードの一つに枕のエピソードがあります。
小松帯刀は薩摩藩の重臣でしたが、西郷隆盛と比べると8歳年下。
そのため西郷隆盛は彼が本当に薩摩藩の重臣としての器量が備わっているのかということを試すためにあえて小松帯刀の邸宅の部屋で横になったのだそう。
もちろん上司の部屋に横になるのは失礼にあたる行為。
本来であれば怒鳴り散らしても良い場面なんですが、小松帯刀は横になっている西郷隆盛に対して枕を持ってくるように命じたのでした。
これには西郷隆盛も感極まり、最終的には西郷隆盛と小松帯刀は盟友に。
小松帯刀は下級武士であった彼の後ろ盾を行い、彼が活躍する地場を建てたのです。
小松帯刀の逸話と名言
小松帯刀は薩摩藩を主導した人として有名なんですが、さらに彼は愛妻家であったとされています。
藩のために激務をこなしていた小松帯刀でしたが、結婚まもない頃は薩摩藩内にある栄之尾温泉に新婚旅行に出かけたと日記には書かれています。
もし、この話が本当だとするならばこれまで日本初の新婚旅行を行なったとされる坂本龍馬の10年前にすでにやったことになり、彼が日本初の新婚旅行を行なった人物となるのです。
名言
「自分もぜひパリに渡りたいと志願したけれども聞き入れられず、本当に残念です」
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです!
- 小松帯刀は薩摩藩の家老として薩長同盟の締結に奔走し、さらに明治維新後には版籍奉還の実施を目指して活躍した
- 小松帯刀は元々病気がちなのもあって35歳でこの世を去ってしまった
- 西郷隆盛は小松帯刀の懐の広さに感銘を受けて、小松帯刀は西郷隆盛の後ろ盾となり彼が活躍する道を開いた
- 小松帯刀は坂本龍馬と仲がよく、そのおかげで薩長同盟が成し得た
- 小松帯刀は日本初の新婚旅行をした人と言われている
最後になりましたが、小松帯刀は早くに亡くなってしまったこともあり、大きな活躍はしたものの、あまり名前は聞かれることはありません。
しかし、彼がいたからこそ西郷隆盛は活躍できたと思いますし、薩長同盟が締結できたのです。
小松帯刀はまさしく影の功労者だったのですね。