今回はペリー来航について分かりやすく解説していきたいと思います!
- ペリー来航とその後の影響
- ペリー来航の場所や年号
- ペリー来航時の将軍は誰?
- ペリーの人物像や経歴年表
- ペリーのあだ名は熊親父?
- 日本開国は偉大な兄を越えるためだった?
その他にも、ペリー上陸を記念するペリー公園や、ペリーロード、ペリー艦隊来航記念碑などなど、ペリーにまつわる観光スポットも詳しくご紹介していきたいと思います!
では、まずはペリー来航とその後の影響について解説していきますね!
目次
ペリー来航の目的とその後の影響
ペリー来航とは、アメリカ・フィルモア大統領の親書(手紙)を持って、ペリー提督が『アメリカ合衆国海軍・東インド艦隊』の艦船4隻を率いて日本に来た一連の騒動のことを言います。
ちなみに、歴史上ではこの時から「幕末」が始まったと言われています。
そして、ペリーが来航した目的は日本を開国するためでした。
その理由は以下の2点です。
- 捕鯨をするために寄港地が必要
- 中国大陸に進出するための補給基地確保
まず、①を詳しく解説していきますね。
当時、産業革命による「燃料需要」に応えるため、クジラの乱獲が行われていました。
「鯨油」が目的だったのです。
石油の採掘が本格化される19世紀後半まで、鯨油はもっとも良質な燃料油と考えられていたのです。
日本が開国を求められていた当時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場として知られていました。
そのため、この地域での捕鯨拡大を望むアメリカは、拠点として日本に注目したのです。
1年以上の長い航海を行うことが普通でしたし、また、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、大量の薪や水が必要でした。
こういった物資の補給地点として日本という場所が最適だったのです。
では次に②の解説ですが、当時のアメリカは、メキシコとの戦争で「カリフォルニア」を手に入れて、太平洋に面した港を手に入れていました。
そして、この頃アメリカでは1848年から始まった「ゴールドラッシュ」の影響で、太平洋沿岸へ大量の移民が流入。
こうして発展した西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとしていたのです。
当時の人口は日本が約3000万人だったのに比べ、清では約4億人、まさに巨大マーケットだったというわけです。
当時の世界最強国はイギリスで、イギリスに次ぐ大国がロシア、そして、フランスが続くといった状況でした。
日本が鎖国でも長年貿易を続けていたオランダは小国でした。
そして、アメリカも新興国・小国でした。
アジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリスやフランス、オランダなどに遅れをとっていました。
この遅れを取り戻そうと、いまだオランダ以外が進出していない日本を目指したのです。
アメリカが清との貿易のために使っていたルートは「北太平洋から千島列島・津軽海峡」を経由して上海へ向かうというものでした。
そのため、寄港地・補給基地として「箱館」を開港してくれたら、都合がよかったのです。
この2つの理由によりペリーは日本開国を要求してきたのです。
次に、ペリー来航後の影響について解説していきますね。
最初のペリー来航時、「答えを出すまで1年待って欲しい。」と日本側がペリーに訴え、1年の猶予を取り付けることができました。
しかし、そうこうしているうちに約束より6ヶ月も早く、今度は7隻の黒船を引き連れて、ペリーは日本にやって来ました。
突然の来航に大変慌てた幕府でしたが、1ヶ月間の協議の上、ついにアメリカへの開国を認めます。
そうするしか他に案がなく、時代の流れに押し負けた形でした。
日本が約200年続けた鎖国は終わりを迎えます。
開国にあたり、日本とアメリカは『日米和親条約』を結びます。
その内容は以下の通りです。
- アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること。
- 下田、箱館の2港を開き、下田への領事の駐在を認めること。
- アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
この時点の日米和親条約では、まだ貿易に関する事項は含まれていなかったため、航海に必要な水、食料、薪、石炭などを幕府が補給するということで落ち着きました。
この日本開国という大ニュースはすぐに他国へ知れ渡り、同じ年に来航したイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結びました。
そして、この日本にとって大事件であったペリー来航が、江戸幕府を倒幕し、明治維新が成し遂げられるきっかけとなったのです。
それはなぜだったのでしょうか?
その頃の老中は、阿部正弘という人物でした。
そして、阿部正弘はペリーが来たことを朝廷に報告しました。
他にも、諸大名、幕臣、旗本や御家人たちにも、このことについての対応をどうしたらいいか意見を求めてしまったのです。
最終的には外様大名にまで意見を聞く始末でした。
なぜ江戸幕府が長続きしたかというと、幕藩体制(幕府のやることに、朝廷や藩、幕臣などは一切口出ししないという体制)のおかげだったのですが、それを老中自らが崩すようなことをしてしまったのです。
阿部正弘にとっては、あまりにも大きな事柄だったので、自分一人では抱えきれず、自分で責任を持って結論を下せるような事態ではなかったでしょう。
しかし、このことが幕府の政治に対して、朝廷や諸藩、幕臣が口出しできるような隙を作ってしまったのも事実です。
それが元で諸藩の発言力が高まり、幕府の権威は失墜していきます。
そして、最終的には外国を追い出そうとする尊王攘夷の考えが広まり、頼りない幕府を倒そうとする運動が加速するのです。
ペリー来航は、日本の歴史を変える重要な転換点だったのです。
この後は、ペリー来航の場所について解説していきます。
ペリー来航の場所
ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊は、江戸湾入り口の『浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)』沖に停泊しました。
一部は測量と称して江戸湾深くまで侵入しました。
その結果、幕府はペリー一行に『久里浜』への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領親書が幕府に手渡されました。
来航してすぐに、湾内で何十発も空砲を打ったため、江戸は大混乱。
浦賀には黒船見たさに見物人が溢れかえる事態になりました。
次はペリーが来航したときの年号について書きますね。
年号
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)です。
次に、ペリー来航時の将軍について解説していきます。
ペリー来航時の将軍はだれ?
ペリー来航時の将軍は第12代徳川家慶(11代将軍徳川家斉の次男)です。
しかし、ペリーが来航してから19日後の6月22日に、幕閣がその対策に追われる中、薨去。
熱中による心不全が死の原因と言われています。
その後を継いで、家慶の四男である徳川家定が13代将軍になります。
次は、ペリーってどんな人物?について解説していきます!
ペリーはどんな人物?
本名マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbra)は江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求した人物として知られています。
では、ペリーという人物は実際はどんな人物だったのでしょうか?
ペリーの性格や、その他の功績のについて詳しく説明していきますね。
ペリーの体格はと言うと日本人で民衆思想家・菅原八郎がペリーを実際見て、身長は6尺4〜5寸(193cm〜195cm)であったと記録しているように、かなり大柄な人物であったようです。
日本人の残している当時の似顔絵でも初期のものは、天狗や鍾馗様のような恐ろしい姿で描かれています。
それだけペリーには威圧感があったのでしょう。
しかし、大柄な体格に似合わず、技術将校(エンジニア)としてアメリカ海軍内でキャリアを積んできた人物でした。
1833年には、ブルックリン海軍工廠の造船所長になり、蒸気船の研究に没頭。
1837年には、アメリカ海軍2隻目の蒸気船フルトン号の建造に成功しました。
この功績のより、同年には大佐に昇進。
1840年にはブルックリン海軍工廠の司令官になり、代将の地位を獲得します。
ペリーは蒸気船建造に関わりも深く、蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にも熱心に取り組みました。
このことからペリーは『蒸気船海軍の父』と称えられ、海軍教育の先駆者とされています。
また、職務ではありましたが、北部解放奴隷が増え、自由黒人をアフリカに帰す事業に尽力し、移民船では指揮をとっています。
奴隷制度は廃止すべきという立場をとり、アフリカのリベリア建国の一躍もかっています。
一方、プライベートの時のペリーはと言うと、海軍士官というと社交界に出入りし、世の女性たちの憧れの職業だったと思われますが、ペリーは20歳で結婚し、遊び呆けることなく、無口で愛想がなく、仕事熱心な真面目男だったようです。
恐妻家とも知られており、妻一筋。
息子たちもすべて海軍軍人となりました。
古き良きアメリカの典型的な厳しく、そして、家族想いの良き父親だったようです。
海軍勤務で家を空けることがほとんどであったため、子供たちが喧嘩をしないように強く戒める内容の手紙が残されています。
日本開国の大任を終え、香港で帰国申請をし、イギリス船に便乗し、地中海を渡り、ヨーロッパ大陸は鉄道で移動しました。
ヨーロッパ数カ国での保養を経てイギリスへ。
その後ニューヨークへの帰国の途につきます。
晩年は、アルコール使用障害や痛風、リウマチなどに悩まされました。
退役後は日本遠征記の執筆に捧げました。
ペリーは日本に来る際、画家と写真家を連れてきており、日本で見たことをそのままに記録することも計画していたのです。
多くの文献を読んで、日本の研究をしていたというくらいですから、もしかしたら日本のことをとても気に入っていたのかもしれませんね。
次は、ペリーの経歴年表を紹介していきますね。
ペリーの経歴年表
《日本来航まで》
1794年 4月10日ロードアイランド州ニューポートで、アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラー間に三男として生まれる。
1809年 わずか14歳9ヶ月で士官候補生の辞令を受けアメリカ海軍に入隊。
1812年 米英戦争に2人の兄とともに参加する。
1833年 ブルックリン海軍工廠の造船所長となる。
1837年 アメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進。
1840年 6月に同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。
1846年 米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進。
《日本開国任務》
1852年 11月に、東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられる。
同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。(フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球を経由した)
1853年 7月8日、浦賀に入港した。
7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れて上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領親書を手渡す。(ここでは具体的な協議は執り行なわれず開国要求したのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。)
1854年 2月13日に旗艦サスケハナ号など7隻のの軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求める。
〃 3月31日、神奈川で日米和親条約を調印した。
〃 7月11日、那覇に寄港して、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。
《退任と晩年》
1855年 海軍を退任。その後は日本遠征記などの出版に注力した。
1858年 3月4日ニューヨークで死去。
次はペリーのあだ名は熊親父?について解説します!
ペリーのあだ名は熊親父?
ペリーは海軍に入り、誰もが羨むスピードで出世していきました。
そして、海軍には艦長の事を「親父」と呼ぶ習慣がありました。
先程も取り上げたようにペリーの体格は、今でいうプロレスラーの様な大柄な体格でしたし、ペリーの迫力のある態度、挨拶や合図の声が熊のように大声であった為、水兵や海兵隊、他の士官たちから『熊親父』(Old Bruin)と隠れてあだ名されていたようです。
昔の海軍の方達もペリーの雰囲気に合った面白いあだ名を考えますよね(笑)
次は日本開国は偉大な兄を越えるため?について解説していきますね!
日本開国は偉大な兄を超えるため?
ペリーはなぜ日本開国に尽力したのでしょうか、その理由は偉大な兄を越えるためだったと言われています。
ペリーは3人兄弟の末っ子でした。
そして、次男のオリバー・ハザード・ペリーは特に優秀で、14歳で海軍兵学校に入り、1813年米英戦争中のエリー湖の戦いでイギリス艦隊を沈める事なく、すべて拿捕する手柄を立てて、『エリー湖の英雄』と呼ばれます。
末っ子のペリーは兄の活躍を見て、憧れを持ち、海軍に入隊します。
そして、少年の頃のペリーの夢は手柄を立てて、いつか兄を越える名声を得る事でした。
しかし、1819年ペリーが24歳の時に大事件が起きたのです。
何が起きたかというと、アメリカ海軍の英雄オリバー・ペリーが、ベネズエラ遠征中に昆虫を媒介とした感染症により命を落としてしまったのです。
享年34歳でした。
エリー湖の英雄になってから、僅か6年後の死はオリバーを伝説にします。
彼の武勇伝はアメリカの教科書に掲載され、アメリカ人の英雄となり、それと同時にマシュー・ペリーの手が届かない人物になってしまったのです。
その後、マシュー・ペリーは、オスマントルコのアルジュ邦との間に起きた「第二次バーバリ戦争(北アフリカの海賊退治)」に大尉として従軍し、手柄を立てますが、以後戦場には恵まれず技術将校としての道を歩みます。
これから先は、兄とは違う技術畑で着実に出世の道を進んでいくのです。
そして、ついにはブルックリン海軍工廠の司令官になり、代将の地位を獲得します。
この代将という地位ですが、当時のアメリカ海軍の最高の階級なんです!
階級では兄をはるかに超えているのですが、これだけではペリーは兄を超えたとは考えませんでした。
なぜならは、今も昔もアメリカ人は戦争に勝利した人物を英雄と呼ぶという考え方が浸透していたからです。
今でもアメリカの偉大な大統領は『ワシントン』『リンカーン』など独立戦争や南北戦争を勝利に導いた大統領なんです。
マシュー・ペリーは優れた技術将校でしたが、幸か不幸かペリーのいた時代は戦争ばかりのアメリカの歴史の中で、あまり戦争がない時代で、彼は大きな手柄を上げられずにいました。
この頃、ペリーは50歳を越え、もうすぐ退役という時期に差し掛かっていました。
「まだまだ自分は兄を超えられていない・・・。」
残り少ない時間で、戦争以外で英雄になるには何をすればいいのか、ペリーは考えます。
悩んだ末に、彼が目を付けたのが極東において開国を拒む日本でした。
ペリーは、シーボルトが記した著書『日本』等40冊の日本関連資料を読みふけり、日本を開国させる術はないか研究を続けます。
「戦争がないのなら、外交で日本を開国させて、伝説の英雄である兄を超えてみせよう。」
このようなペリーの考えから、日本開国計画は進められていったのです。
そして、ペリーは国防長官ウィリアムに以下の基本計画を提出します。
①任務成功には、戦艦4隻、内3隻は蒸気船が必要である。
②日本人は書物で蒸気船を知っている可能性があるが実物を見る事で、近代国家の軍事力を認識できるだろう。
③中国人同様、日本人にも友好より、恐怖に訴える方が交渉に有利になる。
④オランダの妨害が予想されるので長崎での交渉は避けるべきである。
そして、1853年7月8日、嘉永6年6月3日、午後5時、ペリー艦隊は浦賀へ出現しました。
日本を研究し尽くしたペリーの計画は見事的中、3代将軍徳川家光の時代から、200年以上も継続した鎖国の時代は終焉を迎えます。
日本開国は、兄を超えたいというペリーの周到に計画された一大事業だったんですね。
では次に、ペリー上陸を記念するペリー公園についてご紹介していきますね。
ペリー上陸を記念するペリー公園
ペリー公園は神奈川県横須賀市にあります。
ペリーの上陸を記念する公園で、『ペリー上陸記念碑』、『ペリー記念館』があります。
ペリー上陸記念碑は、ペリー上陸を記念して1901年(明治34年)に米友協会建立したものです。
碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」は伊藤博文の筆によるものだそうです。
ペリー記念館では、ペリー来航に関する歴史的事実を多くの人に理解して貰うために、ペリー上陸直前を描いた絵巻物や、黒船の概要を描写した古書など、当時の資料や様子を伝える貴重な資料等を展示しています。
では次は、ペリーロードについて紹介して行きますね!
ペリーが約300人の部下を引き連れたペリーロード
ペリーロードは、伊豆半島の南部に位置している静岡県下田市にあります。
幕末、黒船に乗ってやってきたペリー提督が約300人程の部下を引き連れ行進したとされる小径が「ペリーロード」と呼ばれています。
ペリーロードは、平滑川(ひらなめがわ)沿いに700メートルほど続いています。
そして、明治、大正時代に作られた石造りの洋館や古民家が数多く残っていて、どこか異国情緒溢れるレトロな雰囲気を醸し出しています。
一年を通して観光客のみなさんが訪れる人気スポットで、アンティークショップやカフェなどが軒を連ねています。
次は、ペリー艦隊来航記念碑をご紹介します!
ペリー艦隊来航記念碑
ペリー艦隊来航記念碑は、静岡県下田市を流れる稲生沢川の河口付近に建つペリー来航を記念して建てられた記念碑です。
下田は1854年に函館と共に日本で一番最初に開港された場所です。
ペリーは下田の了仙寺にて日米和親条約の細則付加条約である下田条約を締結するために来航しました。
現在では、来航記念碑の傍らに日米交流150周年記念にアメリカ大統領から送られたメッセージプレートも建てられています。
次は、黒船に乗れる?伊豆クルーズについてご紹介していきます!
黒船に乗れる?伊豆クルーズ
伊豆クルーズとは、幕末開港歴史の港・下田港を遊覧船『黒船・サスケハナ』に乗って一周するコースです。
海岸沿いの街並み、ペリー艦隊投錨の地、吉田松陰が密航を企てて、身を潜めたとされる『弁天島』、南伊豆の遠景などを楽しめます。
また、秋から春にかけては船から『カモメの餌付け』が体験できます。
次は、黒船ミュージアムについてご紹介しますね!
Mobs黒船ミュージアム
Mobs黒船ミュージアムは下田市、了仙寺の敷地内に2016年元旦にオープンしました。
了仙寺が所蔵する黒船・開国の実物資料を展示するミュージアムです。
了仙寺は、日米和親条約の付帯協定である下田条約が調印された場所です。
ペリーもこの寺院を訪れたそうです。
1854年に下田港が開港されると、了仙寺は米国人の休憩所として開放されました。
その縁で了仙寺には、3000点を越える黒船や開国に関する絵画や資料が所蔵されています。
教科書に掲載されているペリーや黒船に関する絵の多くが、了仙寺提供のものです。
次は、おすすめのカフェやランチをご紹介していきます!
おすすめのカフェやランチ
まずは、ペリー公園周辺のグルメスポットをご紹介していきますね!
《黒船食堂》
久里浜海岸のすぐ側でペリー公園並びの昔ながらの定食屋さんです。
家族連れにもおすすめで、魚の定食メニューが豊富で、フライ物が絶品。
特にアジフライ!
《漁師料理よこすか 海辺の湯 久里浜店》
久里浜港にできた日帰り温泉のお食事処。
海に面した立地なので水も綺麗で活きが良い魚介が満載。
普段ではあまり見ない磯料理や、本格漁師料理のメニューが豊富で、美味しくしかもリーズナブル。
時期によって異なるが、カンパチ、ヒラメ、タイ、アジなどオーダー後に生簀からすくって、その場で捌いてくれる本格活魚や「金目鯛の煮付け」、「金目鯛のなめろう」、「舟盛り」が人気メニュー。
貝焼き食べ放題の「浜焼きバイキング」もご家族連れにおすすめです。
《くりはま花の国 ガーデンレストランロスマリネス》
ペリー公園のすぐ近くに位置する、くりはま花の国の中にあるレストランです。
本格的な食事から、軽食、デザートに至るまで、様々なメニューが揃っています。
中でも人気があるのは、ポテチとカレーの絶妙なコンビネーションを味わえる「花の国名物ポテチカレー」。
さくさくの食感とマイルドなカレーの両方が際立っています。
さらに、香り豊かな「北欧紅茶」も是非オーダーしたいおすすめのドリンクです!
高台から絶景を眺めつつ、バラエティ豊かなメニューを楽しめるくつろぎの空間となっています。
次は、ペリーロード周辺にあるおすすめのカフェ、グルメスポットをご紹介していきますね。
《草画房》
ペリーロードの東の入口に位置するカフェです。
古民家を改造してできた、下田の風情が残っています。
店主が書道家で、店内には多くの作品が並んでいます。
美味しいコーヒー、梅ジュースやシソジュースといった斬新な飲み物、舌触りまろやかな抹茶カプチーノなどがあります。
《風待工房》
アンティークの家具や骨董品と喫茶店が合体したお店です。
外観は古い日本家屋で、レトロな感じを醸し出します。
《えび満》
この店の自慢の商品は何と言っても金目鯛!
日もどり地金目鯛といい、その日に獲れた金目鯛をその日にお店で料理します。
ボリューミーなウニ、イクラ、サザエ、ボエルが入った「えび満名物 特上漁師めし」やTV番組メレンゲの気持ちで石ちゃんが絶賛していた「漁師めし」、ほんのりした甘辛で風味が格別の「地金目鯛漁師煮」など魅力的な金目鯛の料理がたくさんあります。
《ページワン》
レトロな雰囲気のペリーロードの中ごろにあるパスタと雑貨のお店です。
南伊豆で収穫された菜の花とゴルゴンゾーラや、モッツァレラ・グリエール・ゴルゴンゾーラ・パルミジャーノレッジャーノの4種類のチーズを使用したショートパスタ、イタリアのパルマ産の生ハムがたっぷりのピッツアなど、イタリアンを食べるのならここ!
アクセスや駐車場について
《ペリー公園》
住所:神奈川県横須賀市久里浜7−14
交通案内:電車と徒歩→JR「久里浜駅」または京浜急行「京浜久里浜駅」より徒歩約20分。
バス→JR「久里浜駅」または京浜急行「京浜久里浜駅」からバスで「ペリー記念碑」下車すぐ。(バス乗車時間約10分)
船と徒歩→東京湾フェリー久里浜港より、徒歩約10分。
駐車場:ペリー公園には駐車場はありませんので、公共交通機関をご利用下さい。
なお、ペリー公園から車で約5分の場所に、くりはま花の国第2駐車場(有料大型バス2060円・普通車620円)がありますので、大型バスの待機する駐車場をお探しの場合はご利用ください。
《ペリーロード》
住所:静岡県下田市三丁目
駐車場:付近のコインパーキングを利用
交通案内:伊豆急行下田駅より徒歩10分ほど
《伊豆クルーズ》
住所:静岡県下田市外ヶ岡19番地
電話番号:0558−22−1151
営業時間:9時10分〜15時30分
運賃:大人 1200円 小人 600円
所要時間:一周約20分
定休日:無し(但し、天候によって欠航になる場合があります。)
交通案内:伊豆急下田駅より東海バス間戸ヶ浜下車徒歩1分
《Mobs黒船ミュージアム》
住所:静岡県下田市三丁目12−12
電話番号:0558−22−2805(了仙寺)
開館時間:8時30分〜17時(入館 16時40分まで)
休館日:12月24日〜26日
入館料:大人 500円 小中高生 250円
駐車場:有り
交通案内:伊豆急行下田駅より徒歩10分
最後にペリー来航についてのまとめをしますね!
まとめ
ではペリー来航についてまとめます。
・ペリー来航とは、アメリカ・フィルモア大統領の親書(手紙)を持って、ペリー提督が艦船4隻を率いて日本に来た一連の騒動のことをいう
・ペリー来航の目的は日本を開国することだった
・日本開国要求の裏側には、アメリカの捕鯨拡大と中国大陸進出のための補給基地確保という理由があった
・ペリー来航後の影響として、日本は下田と箱館を開港し、約200年続いた『鎖国』が終焉を迎え、それと同時に江戸幕府の権威の失墜と倒幕運動が加速する
・ペリー来航の場所は『浦賀』、上陸したのは『久里浜』
・ペリー来航の年号は嘉永6年6月3日(1853年7月8日)
・ペリー来航時の将軍は第12代徳川家慶だが、19日後の6月22日に薨去。その後を継いで、徳川家定が第13代将軍になる
・ペリーはどんな人物だったかというと、
①身長は6尺4〜5寸(193cm〜195cm)でかなり大柄だった
②技術将校(エンジニア)としてアメリカ海軍内でキャリアを積んできた人物
③蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にも熱心に取り組み
『蒸気船海軍の父』と呼ばれている
④北部解放奴隷をアフリカに帰す事業に尽力し、指揮をとった功績がある
⑤プライベートでは恐妻家とも知られており、妻一筋
⑥息子たちもすべて海軍軍人で、家族想いの良き父親だった
⑦晩年は、アルコール使用障害や痛風、リウマチなどに悩まされていた
⑧退役後は日本遠征記の執筆に捧げる
・ペリーは大柄な体格と、迫力のある態度、挨拶や合図の声が熊のように大声であったことから水兵や海兵隊、他の士官たちから『熊親父』と呼ばれていた
・ペリーの日本開国への熱意は、『エリー湖の英雄』と呼ばれ、若くして亡くなった兄の功績を越えるためだった
まとめると少しわかりやすくなりましたかね?
ペリーの日本開国は見事に達成されましたが、ペリーの死後1861年に勃発した『南北戦争』のためアメリカは余力を失い、日本から一時撤退を余儀なくされました。
このことで、アメリカでのペリーの功績に対する評価は影を薄めてしまいました。
ペリーの『兄を越える名声を得る』という夢は、残念ながら達成することはできなかったようです。
しかし、ペリー来航の日本へ与えた影響は非常に大きく、日本の歴史を変える重要な転換点として、教科書にも必ず掲載される事柄となっています。
当時、初めて見る黒船に為政者だけでなく民衆も強い関心を抱いていました。
こうした民衆の国際情勢に対する関心の高さが、江戸幕府を倒し、『明治維新』という大きな社会変動を後押しするエネルギーに繋がったのかもしれません。