今回解説していくのは中大兄皇子とともに大化の改新を推進していった中臣鎌足!
彼がのちの藤原氏の祖となったのですが、今回はそんな中臣鎌足について
- 中臣鎌足とはどんな人物だったのか?
- 中臣鎌足のルーツと子孫
- 中臣鎌足のお墓の謎
- 中臣鎌足と中大兄皇子の関係
などなど詳しく解説していきたいと思います!
目次
中臣鎌足について簡単に解説!
中臣鎌足は朝廷の祭祀を司っている神祇官の長官の子供として614年に生まれたとされています。
ちなみに、生誕の地は朝廷の都が置かれていた飛鳥生まれの説や、茨城県鹿嶋市生まれの説があります。
鹿嶋市は鹿島神宮でも有名な場所ですね。
中臣鎌足は神祇官の長官の息子として遜色ない学力を持っており、太公望が記した六韜(虎の巻の由来)を丸ごと暗記したり、蘇我入鹿と共に南淵請安の塾の双璧と言われるほどだったとか。
その後、中臣鎌足は蘇我入鹿による朝廷に対する軽視や中大兄皇子と出会ったことがきっかけで蘇我入鹿の討伐を決意。
645年に乙巳の変を起こして蘇我入鹿と蘇我氏の本家を滅ぼし、その後中大兄皇子の補佐役として朝廷内で活躍しました。
その活躍もあってか亡くなる前日に中大兄皇子からこれまでのことを振り返り、朝廷最高位の大織冠と藤原の姓を与えられ、名門藤原氏の礎を築き上げました。
中臣鎌足は渡来人?実は百済王だった?
朝廷に大きな影響を与えた中臣鎌足。
しかし、彼には実は朝鮮半島からやってきた渡来人だという噂があり、さらには百済の王様という説があるのです。
実は中臣鎌足の鎌足という呼び方が韓国語と似ているというのがこの説にあるのですが、これは非常に怪しいと言えます。
まず、韓国語についてなんですが、韓国語の基礎となったのは百済の言葉ではなく新羅の言葉です。
そのため韓国語に似ているからといって鎌足のことを百済からきた渡来人ということは難しいのです。
ちなみに、中臣氏は記録によると天孫降臨で日本にやってきた神武天皇のガイド役を務めた天児屋命の子孫なんだそうです。
中臣鎌足のミイラが大阪にある?
飛鳥時代の前半は土葬といって遺体を火葬せずにそのまま埋めるという方式がとられていました。
ちなみに、この頃はまだ普通に古墳が造られていました。
それどころか今でも武蔵陵墓地のように天皇は古墳に埋葬されています。
さて、本題に入りますが、中臣鎌足も亡くなったのち古墳に埋葬されることになるのですが、現在その中臣鎌足の墓ではないかと言われている古墳が発掘されているのです。
さらに、その棺の中には60歳で亡くなったと推定されるミイラ化した遺体がほぼ完全な状態で残っていることが判明。
さらに調査を進めていくと大織冠があり、これが与えられたのは中臣鎌足のみであることから彼で間違いないという説が上がったのです。
しかし、これが中臣鎌足であるなら遺体を晒し者にしているという意見も出てしまい、調査は中断されたそうです。
非常に残念なことですが、モラル的に考えるとこれは致し方のないことなんでしょうね。
中臣鎌足の子孫は芸能人のあの人?
中臣鎌足の子孫で有名人は数え切れないほどいます。
なぜなら彼は藤原氏の祖先だから。
後に紹介する藤原道長も、鎌倉時代以降に公卿を独占する五摂家も、昭和時代に内閣を組織する近衛文麿も全員元を辿れば中臣鎌足に行き着きます。
ちなみに、日本の名字には〇藤とつく人が多いですが、これは平安時代以降に増え過ぎた藤原氏をいろいろ区別するためにその人の出身地や職業などで区別したことが始まりだと言われています。
例えば佐藤だったら土佐国の藤原氏、近藤だったら近江国の藤原氏、伊藤だったら伊勢国の藤原氏だったり。
ちなみに、伊藤は三重県(伊勢国の現在)が一番多いんだとか。
そのため〇藤とついている有名人は大体中臣鎌足の子孫である可能性が高いと言えるのです。
家系図
中臣鎌足は朝廷の祭祀を司ってきた中臣氏の出身でしたが、彼以降は藤原氏となります。
中臣鎌足の次男である藤原不比等は中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変を起こしてから行った大化の改新の集大成である大宝律令の制定に大きく関わり、さらには天皇とのつながりを強化して後につながる藤原氏の基礎を築き上げました。
そして、藤原不比等の息子であるいわゆる藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)の時代になると長屋王をクーデターで追い落として権力を確立。
藤原氏はその後長男である藤原武智麻呂の家系(この家系を藤原南家と言います)が継ぐこととなります。
しかし、奈良時代に入ると藤原武智麻呂の家系は恵美押勝の乱によって没落。
宇合の家系も藤原広嗣の乱や薬子の変などで没落して、麻呂の家系も氷上川継の乱に巻き込まれて没落すると平安時代以降の藤原氏は次男の藤原房前の家系が中心となります。
中臣鎌足と藤原道長との関係は?
中臣鎌足は上でも書いた通り藤原氏の祖となり、中臣鎌足の息子である藤原不比等からは朝廷で権力を振るうようになりましたが、藤原氏の有名な人物の1人に藤原道長という人がいます。
藤原道長は摂関政治といって自分のところの娘を天皇に嫁がせて自分はその天皇の外戚として権力を握るという政治体制の最盛期を築き上げましたが、道長は藤原不比等の次男の藤原房前の子孫でした。
ちなみに、みなさんが知っている藤原氏の人物は殆どが藤原房前の子孫なんですよ。
中臣鎌足と中大兄皇子の関係は?
中臣鎌足が生涯最後まで使えた主人である中大兄皇子。
2人の出会いは飛鳥寺というところで蹴鞠大会をした時に中大兄皇子が靴を落としたところを拾ったことから始まりました。
中臣鎌足も中大兄皇子も同じく蘇我入鹿を打倒するという共通点を持っていました。
さらに蘇我氏でありながら蘇我入鹿と仲が悪かった蘇我倉山田石川麻呂とともに乙巳の変を起こしました。
その後中臣鎌足は中大兄皇子のサポート役として乙巳の変の翌年に出された改新の詔を実現するために奔走して、最期の時には中大兄皇子から朝廷の最高位と藤原氏の位が与えられることになったのです。
そして、その中大兄皇子と中臣鎌足が成し遂げようとした大化の改新は中臣鎌足の次男である藤原不比等が見事に大宝律令の制定で完成されるのでした。
それではまとめに入りましょう!
まとめ
まとめに入ります!
- 中臣鎌足は神祇官の長官であり、藤原氏の祖となった
- 最近、中臣鎌足と思われる墓が発掘され、ミイラ化した遺体が見つかった
- 中臣鎌足は藤原氏の祖ということもあって、藤原道長を始め著名な有名人と繋がっている
- 中臣鎌足は中大兄皇子と蹴鞠大会のことから仕え、最期の時までお供した
最後になりましたが、中臣鎌足の子孫はここから先朝廷に対してものすごい影響力を及ぼすことになります。
そうなるきっかけを作った中臣鎌足は中大兄皇子から信頼されてたからなのかもしれませんね。