今回ご紹介するのは、飛鳥時代です。
豪族の力がまだ強かったころから、この時代を通じて、天皇を中心とした中央集権の国家へと日本は変貌していきます。
今回は、奈良時代の日本の政治体制を方向づけたともいえるこの時代について、じっくりと見ていきます!
- 飛鳥時代の人々の暮らしとは
- 飛鳥時代の有名な人物出来事をご紹介!
- 聖徳太子は実在したのか?
今回はこうした事項について特に詳しく見ていくので、是非ご注目ください!
目次
飛鳥時代の暮らし
飛鳥時代は、豪族と庶民で暮らしぶりが大きく変わっていました。
豪族の住居は100m四方にも及ぶ敷地の中に、いくつもの建物が連なったものでした。
建物ごとに、主人の住むところや従者の住むところ、台所などの役割が分かれていたのです。
一方の庶民の住居ですが、こちらは弥生時代から変わらず竪穴式住居です。
田畑に近いところで村を形成し、その村に高床式倉庫を有していた点も、以前と変わらないですね。
次の章からは、当時の人々の食事や服装、髪型について見ていきます!
食事
こちらも身分の違いで大きく異なります。
身分の高い人々しか飲めなかったのが、牛乳です。
当時は牛乳を長時間煮詰めて作る「蘇」という食べ物や、牛乳がベースとなった「飛鳥鍋」などが食されていました。
このほかにも貴族階層は鯛や鮑などいろいろなものを食べており、かなり品数も充実していたようです。
一方下級役人クラスは、イワシの煮付けなどはあったものの、ほかは前述のものと比べるとかなり質素なものでした。
さらに都へ働きに出た庶民となると、一汁一菜が基本であり、栄養が足りずに倒れてしまう人もいたようです。
服装
まずは貴族階級の服装から見ていきます。
身分の高い人の服には鮮やかな色がついています。
男性はズボンのような袴をはいて黒い冠をかぶり、女性は上着の下にスカートのようなものをはいていたようです。
庶民のほうはというと、弥生時代からあまり変わらない色のついていない服を着ていました。
住居も服装も、庶民のものは昔からあまり変わっていないということですね。
髪型
飛鳥時代の文化は大陸からの影響を受けていることに特色がありますが、髪型もまた同様でした。
この時代の男性の髪型は「髻(もとどり)」といって、頭上で髪を結うスタイルです。
これは冠をかぶるためのスタイルであったようです。
女性の髪型は、「宝髻(ほうけい)」と「双髻(そうけい)」がありました。
宝髻とは髪を頭上で束ねて金属製のかんざしのようなものを挿して金銀玉の飾りを加えたもので、双髻とは髻が2つある髪型のことです。
次の章では、飛鳥時代の文化について見ていきます!
飛鳥時代の文化
飛鳥時代の文化は、
- 6世紀半ばに仏教が伝来してから7世紀半ばの大化の改新までの文化である「飛鳥文化」
- 大化の改新から8世紀初頭の平城京遷都までの文化である「白鳳文化」
この2つがあります。
まず飛鳥文化から見ていきます。
このころは朝鮮半島から大陸の文化の影響を強く受け、国際色豊かな文化が花開きました。
日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺、現存する日本最古の木造建築である法隆寺などはこの文化を反映した建築物です。
飛鳥寺は蘇我馬子という人物が、四天王寺は聖徳太子が開基であり、もとは氏寺(特定の氏族一門が祈願所または菩提所とした寺院のこと)として建てられ、のちに官寺(国家の監督を受けて経済的保障を受けていた寺院のこと)に準ずる存在となりました。
また、鞍作止利(くらつくりのとり)という人物が作った飛鳥寺釈迦如来像や法隆寺金堂釈迦三尊像などといった、仏像彫刻も多く見られます。
仏像の材質は木造と金銅造があり、その顔の造形としては仰月形の鋭い唇やアルカイックスマイル(顔の感情表現を抑えながら口元だけ微笑んでいる形)が特徴となっています。
次に白鳳文化を見ていきます。
この時期には中国風の本格的な都城である藤原京が造営され、天皇や貴族を中心とした華やかな文化が見られました。
建築としては、大化の改新に貢献した蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺などがあります。
薬師寺東塔は現存する唯一の白鳳時代の建築物と言われて有名でしたが、近年の研究から、白鳳様式で奈良時代に建てられたことが分かっています。
彫刻としては法隆寺銅造阿弥陀三尊像や興福寺仏頭が、絵画としては法隆寺金堂壁画や高松塚古墳壁画が代表的です。
次に、日本への仏教の伝来について見ていきます。
仏教
仏教は、6世紀の半ばに朝鮮半島にあった百済という国から日本に伝わりました。
この正確な年号については、538年とする書物や552年とする書物があり、前者が一般的となりつつもまだはっきりとはしていません。
この仏教をいち早く取り入れたのが蘇我氏であり、この蘇我氏が当時力を持っていた豪族の物部氏との争いに勝利したことで、仏教文化が花開いたのです。
とはいえ、当時は仏教はまだ皇族や豪族の一部にしか信奉されておらず、国民全体にいきわたっていたわけではないようです。
次の章では、前述の仏像の特徴について、もう少し見ていこうと思います。
仏像の特徴
前章で少し触れた、仏像の特徴について再度見ていきます。
仏像は木造か金銅造がありますが、木造の場合ほとんどがクスノキが使われています。
顔の特徴としては、杏仁形の眼や仰月形の唇、アルカイックスマイルなどが挙げられます。
次に、飛鳥時代の天皇の順番とその覚え方をご紹介します!
飛鳥時代の天皇の順番や覚え方は?
飛鳥時代最初の天皇は崇峻天皇でしたが、なんと当時権力者であった蘇我馬子によって暗殺されてしまい、日本初の女性天皇として推古天皇が即位しました。
推古天皇の甥が、有名な聖徳太子です。
その後は
- 舒明天皇
- 皇極天皇
- 孝徳天皇
と続きます。
大化の改新の口火を切った乙巳の変(中臣鎌足・中大兄皇子によって蘇我入鹿が暗殺された事件)は皇極天皇の治世に起こり、この直後に即位したのが孝徳天皇です。
その後は、
- 斉明天皇(皇極天皇と同一人物)
- 天智天皇(中大兄皇子が即位)
- 弘文天皇
- 天武天皇
- 持統天皇
- 文武天皇
- 元明天皇
となります。
このうち弘文天皇は即位したかどうか定かではありません。
元明天皇の治世に、都が藤原京から平城京へと移り、奈良時代が始まります。
これだけ多くの天皇の名前を一度に覚えるのは大変なので、舒明天皇から文武天皇は語呂合わせで覚えましょう。
「女校のコートで鮫チームと揉むる」
女(舒明)校(皇極)コート(孝徳)鮫(斉明)チーム(智、武、すなわち天智と天武)と(統、すなわち持統)揉む(文武)という作りになっています。
天皇家系図
次の章では、飛鳥時代の主要な政治家について見ていこうと思います!
政治家
時代を追って主要な政治家たちをご紹介していきます。
まずは蘇我馬子と物部守屋です。
前述のように、仏教が日本に伝来したのちに最初にそれを取り入れようとしたのが蘇我馬子でした。
それを良しとしなかったのが物部守屋で、両者は厳しく対立しました。
武力抗争にまで発展したのちに蘇我馬子が勝利し、以後50年ほど蘇我氏が権力を握り続けることとなります。
飛鳥時代最初の天皇である崇峻天皇を擁立したのもこの蘇我馬子です。
聖徳太子は、この両者の争いの際には蘇我氏側についており、摂政となったのちに冠位十二階の制定や十七条の憲法の作成などを行いました。
聖徳太子が没した後は、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が専横を行っていたようです。
そんな蘇我氏を滅ぼしたのが、中臣鎌足と中大兄皇子による乙巳の変です。
ここからこの2人を中心として大化の改新が行われ、日本は天皇を中心とした中央集権国家へと変貌していきます。
中大兄皇子は後に即位して天智天皇となり、全国の人民を把握するために庚午年籍という戸籍を作成するなどしました。
その後の有力な政治家としては天武天皇がいます。
彼は天智天皇の弟であり、天智天皇の息子である大友皇子との争いである壬申の乱に勝利して天皇となった人物です。
彼は都を飛鳥浄御原宮に遷したり、中央集権国家の基礎をさらに整えたりするなどしました。
次に、飛鳥時代の主要な出来事について見ていきます。
年表と合わせて見てみてください!
飛鳥時代の出来事
593年に日本初の女性天皇である推古天皇が即位、その治世のもとでは聖徳太子の活躍に加え、小野妹子という人物が当時の中国の隋に派遣され、国書を手渡すという出来事もありました。
推古天皇と聖徳太子が没したのちは、前述の蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が専横を行います。
645年に起きた乙巳の変により、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子は倒され、中臣鎌足・中大兄皇子らによる大化の改新が始まります。
663年には白村江の戦いが行われ、朝鮮半島にあった新羅と中国の唐の連合軍と戦いましたが、日本は敗北しました。
天智天皇の没後には、大海人皇子と大友皇子による壬申の乱が起こり、これに勝利した大海人皇子は天武天皇として即位しました。
大化の改新以降進められた中央集権国家への歩みは、701年の大宝律令の制定をもって完成しました。
そして710年に平城京遷都が行われ、飛鳥時代は幕を下ろします。
年表
年 | 出来事 |
---|---|
587年 | 丁未の乱(蘇我馬子が物部守屋に勝利) |
崇峻天皇即位 | |
592年 | 崇峻天皇暗殺、推古天皇即位 |
603年 | 聖徳太子により冠位十二階制定 |
604年 | 聖徳太子により憲法十七条完成 |
607年 | 小野妹子が遣隋使として隋へ行く |
645年 | 乙巳の変(中臣鎌足・中大兄皇子らにより蘇我氏倒れる) |
大化の改新始まる | |
663年 | 白村江の戦い(日本は唐・新羅連合軍に完敗) |
668年 | 天智天皇即位 |
670年 | 庚午年籍作られる |
672年 | 壬申の乱(大海人皇子が大友皇子に勝利) |
天武天皇即位 | |
690年 | 庚寅年籍作られる |
694年 | 藤原京遷都 |
701年 | 大宝律令制定 |
710年 | 平城京遷都 |
次に、「政治家」の章で取り上げなかった有名な人物について見ていきます。
有名な人物
前述の政治家についての章で取り上げなかった人物について2人見ていきます。
一人目は小野妹子です。
彼は推古天皇の治世である607年に、当時の中国の隋に遣隋使として派遣されました。
隋の皇帝に渡した国書には、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」と書かれていました。
当時の隋の皇帝は、暴君として知られる煬帝であり、彼はこの文言には勿論喜ばなかったようですが、日本との友好関係の構築が外交上不可欠であったことから、日本に使者を送るなどしました。
もう一人は女性天皇である皇極天皇です。
この人物はのちの天智天皇や天武天皇の母親であり、もとは舒明天皇の皇后でした。
在位中に乙巳の変が起こり、その翌日に孝徳天皇に皇位を譲るのですが、これは日本史上初の譲位でした。
孝徳天皇の没後は再び天皇となり(これを重祚といいます)、斉明天皇となります。
この重祚も、日本史上初のことでした。
次の章では、飛鳥時代に聖徳太子は実在したのか、検証します!
飛鳥時代に聖徳太子はいなかった?
聖徳太子は、前述の冠位十二階の制定や憲法十七条の作成のほかにも、法隆寺を建立して仏教の拡大に努めたり、遣隋使を派遣したりと、日本史上屈指の活躍を見せた人物です。
そんな聖徳太子は実在しなかった、という学説が近年唱えられたのですが、果たして本当なのでしょうか。
現在のところ、聖徳太子は実在したという見方が一般的です。
しかし、「聖徳太子」の表記自体は教科書からなくなりつつあります。
彼の本名は「厩戸王」であり、彼の功績を称えて後世の人が彼に贈ったのが「聖徳太子」という名前でした。
現在の教科書では、「厩戸王」の表記が多くなりつつあるのです。
ただ、人物としての実在は認められつつも、彼の功績があまりにも多いことから、それだけの事業を全て一人で行ったのかどうかについては、まだ検証が続けられているようです。
次に、飛鳥時代と奈良時代の違いについて見ていきます!
飛鳥時代と奈良時代の違いは?
飛鳥時代は日本が中央集権国家へと進む過渡期にあったと考えられます。
政治制度としても、全国の土地と人民が天皇のものとする公地公民制や、人民に田を配分して税を納めさせる班田収授法が取り決められたのも、この飛鳥時代でした。
また、飛鳥時代の後半まで古墳の造営が行われていたこともポイントです。
646年には薄葬令というものが出され、身分に応じて墳墓の大きさが規制されたので、ここで古墳の造営がようやく終わりを迎えます。
奈良時代は中国を参考とした天皇を中心とした中央集権国家として出来上がっており、古墳は消滅しているのです。
まとめ
いかがでしょうか?
それでは、飛鳥時代についてもう一度振り返ってみましょう!
飛鳥時代は6世紀末から8世紀前半まで続いた時代です。
人々は身分によって大きく暮らしが異なっていました。
貴族階級は広い敷地に住み、牛乳を含めいろいろなものを食べ、鮮やかな服を着ていましたが、庶民は竪穴式住居に暮らし、質素な食事をし、色のついていない服を着ていて、弥生時代とさほど変わらない暮らしをしていました。
男性には髻という髪型が、女性には宝髻や双髻といった髪型がありましたね。
飛鳥時代の文化としては、飛鳥文化と白鳳文化があります。
飛鳥文化の代表例としては飛鳥寺や法隆寺、飛鳥寺釈迦如来像が挙げられ、白鳳文化の代表例としては薬師寺東塔や興福寺仏頭、高松塚古墳壁画などが挙げられます。
このころの仏像は、木造か金銅造であり、杏仁形の眼やアルカイックスマイルなどが見られます。
仏教は6世紀半ばに百済から伝えられ、蘇我馬子がいち早く取り入れました。
飛鳥時代の天皇の覚え方は、「女校のコートで鮫チームと揉むる」でしたね。
主要な政治家としては蘇我馬子や聖徳太子、専横をはたらいた蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子、大化の改新に携わった中臣鎌足や中大兄皇子のほかに、天武天皇などがいました。
このほかにも有名な人物として、隋に派遣された小野妹子や、2度天皇に即位した皇極天皇などがいました。
飛鳥時代に聖徳太子は実在しなかったという説は一般的ではありませんが、聖徳太子の本名である厩戸王という表記が近年の教科書には前面に出てきています。
飛鳥時代は中央集権国家への過渡期と言え、古墳の造営も行われていましたが、奈良時代には中央集権国家が出来上がっており、古墳の造営もなくなりました。
日本の国家としての性格が大きく変わった時代ですので、今一度見直してみてください!