壬申の乱とは?わかりやすく解説!場所や年号の覚え方と起きた理由について!

今回解説していくのは古代日本の歴史の中で最も大規模であった壬申の乱

この内乱によって日本は大海人皇子による政治が行われ始めます。

 

今回はそんな壬申の乱について

 

  • どうして壬申の乱が起こったのか?
  • 壬申の乱が起こった当時の朝廷について
  • 壬申の乱が起こった年号やその覚え方
  • 壬申の乱の転換点となった不破関について

 

などなどをわかりやすく解説していきたいと思います!

壬申の乱とは?わかりやすく解説!

兜掛石
壬申の乱の最中、大海人皇子が兜を脱いでかけた石とされる「兜掛石」

「壬申の乱」とは、672年に大海人皇子と大友皇子の間で起こった朝廷の後継争いの内乱のことを指します。

 

壬申の乱の「壬申」とは、干支の壬申の年に起こったからこう呼ばれています。

 

このように事件が起こった干支の年を事件の名前にすることは多々あるためしっかりと覚えておきましょう。

 

壬申の乱が起こる直前、この時の天皇であった天智天皇は白村江の戦いの敗北によって負けた相手である唐の侵攻を防いだりするために大津に遷都してできるだけ内陸部に移動させ、福岡県に太宰府を建てて九州地方に防人という兵士を置いたりと国内改革をどんどん進めていきました。

 

しかし、この改革は民衆や豪族に全て丸投げにしたことによって人々は不満の嵐。

さらに豪族たちが天智天皇の改革に反抗。

 

これにより、天智天皇の死後に古代日本を揺るがす一大内乱へと繋がっていったのでした。

 

ちなみに、この内乱の結果は、この当時日本で一番長い橋だと言われていた瀬田の唐橋での激闘を制した大海人皇子の勝利となり、この人が後に天武天皇として即位することとなります。

場所は?

壬申の乱という内乱は元々大海人皇子が吉野にいたこともあり、大海人皇子は吉野〜鈴鹿関〜不破関〜大津京という形で進軍していました。

 

どうして大海人皇子が奈良を経由して大津京を目指さなかったのでしょうか。

それは当時、鈴鹿関と不破関は東国と西国を結ぶ重要な関所であり、大海人皇子はここを抑えることによって東国を我が物にしようという思惑があったからでした。

 

そして準備が整った大海人皇子は吉野から奈良に行く軍と不破関から大津京に目指す軍で挟み撃ちを行い見事大勝利を収めたのでした。

地図

壬申の乱がおこった場所
出典:ウィキペディア

壬申の乱が起こった不破関鈴鹿関のあたりは伊吹山地や鈴鹿山脈が連なっている地で、ここを境に東と西が別れていました。

 

この不破関と鈴鹿関がこの壬申の乱のターニングポイントとなるのですが、それについてはまた後で...

中大兄皇子の家系図

壬申の乱の謎を紐解く方法。

それは当時天皇として即位していた天智天皇(中大兄皇子)の家系図を見ることにあると思います。

 

天智天皇という人は元々第34代天皇である舒明天皇と第35代・37代天皇である斉明天皇の間に生まれました。

 

実はこの時天智天皇には弟がいて、その人こそがもう1人の主人公である大海人皇子だったのです。

 

さてさて、中大兄皇子は第38天智天皇として即位したのち、なるべく跡継ぎ問題を起こさないようにするために弟である大海人皇子を即位した瞬間から朝廷の重職に就かせて政務を行わせます。

 

これはつまりどういうことかというと中大兄皇子はこの瞬間に「自分の後釜は大海人皇子で決まりですよ」ということをアピールするという点もあったのです。

 

こうして大海人皇子は天智天皇の右腕として辣腕を振るう様になるのですが、天智天皇が即位してから3年後、天智天皇は大海人皇子を突如要職から追放。

代わりに自分の愛息子である大友皇子に継がせてしまったのです。

 

さてさて、これは大変ですね。

大海人皇子はこれによって天皇の右腕から天皇の目の上のたんこぶに様変わり。

かつての孝徳天皇と有馬皇子の仕打ちを思い出させるような行動に天智天皇は打って出てしまいました。

 

そして、天智天皇はそんな混乱の中672年にこの世を去り、大海人皇子は自身は天皇の座を狙っていないというアピールをするために吉野に逃れます。

 

こうして大津の大友皇子と吉野の大海人皇子は一触触発の関係となり、壬申の乱へと繋がっていったのでした。

西暦何年に起こった?

壬申の乱が起こったのは672年。

 

672年の年が壬申だから壬申の乱ということは上にも書きましたが、この事件の場合は年号と干支をちゃんと覚えておきましょう。

年号の覚え方

壬申の乱の年号の覚え方は色々あるのですが、そんな中でも一番覚えやすいと思う覚え方は

 

ろくな(67)人(2)間じゃない大海人皇子」です。

 

まぁ、天皇側を追い落としたのは後にも先にも大海人皇子ただ1人なのでろくな人ではないのかもしれませんが、このように覚えておきましょう。

壬申の乱が起きた本当の理由とは?

壬申の乱が起こったこの時、まだまだ史料というものがあまりありませんので、本当に起こった理由は諸説あります。

 

ここでは一応白村江の戦い以降の朝廷のゴタゴタによって起こったとしています。

 

ですが、その他に

  • 大海人皇子が内乱を起こしたことによって豪族の勢力を一掃したりした説
  • 天武天皇の妃であった額田王をめぐる不和説

 

など色々あるんです。

 

まぁ、本当にこの壬申の乱を表す決定的な史料が『古事記』や『日本書紀』などのレベルなので真相がどうなのかは今だに謎のままです。

壬申の乱と関ヶ原の戦いは決戦の場所が同じ?

前述の通り、壬申の乱という戦いの主戦場は、吉野・鈴鹿・そして不破関と呼ばれる伊吹山近くの関所の周辺で起こりました。

 

大海人皇子は吉野から挙兵して鈴鹿や不破関へ向かいましたが、どうして不破関を第一に抑えたのでしょうかね?

 

実はこの不破関という関所は古代日本にとったら西と東を分ける最重要な関所だったのです。

今でも関西や関東と言ったりもしますが、この関という時はこの不破関を指します。

 

このことから見ても不破関はとんでもなく重要な拠点であることがわかりますよね。

ここを抑えた大海人皇子は一気に天智天皇の防人の兵士とされていた東国の人々を仲間にすることに成功して形勢を確固たるものとしました。

 

さてさて、この不破関を抑えたことによって大海人皇子の優勢は確固たるものとなりました。

ただ、日本の歴史の中でここが天下分け目となった合戦がもうひとつありました。

それこそが1600年に起こった関ヶ原の戦いです。

 

関ヶ原の戦いの頃になると不破関という関所は廃止されていたのですが、それでもこの辺りは伊勢街道・北国街道・中山道が行き交う日本でも屈指の交通の要衝の地だったのです。

ちなみに関ヶ原の関は不破関の事というのは言わずもがな。

 

まぁ、なぜ関ヶ原の戦いがあのあたりで起こったのかというと、大垣城という城にこもっていた石田三成を誘い出すために家康が石田三成の居城であった佐和山城という城を目指して進んで結果的にここで野戦が起こったという理由があります。

 

日本の歴史の中で不破関あたりはターニングポイントとなることが多かったのですね。

 

それではまとめに入りましょう。

まとめ

それではまとめに入ります。

 

  • 壬申の乱とは672年に起こった大海人皇子と大友皇子の間に起こった内乱のこと
  • 壬申の乱が起こる主な理由として白村江の戦いの敗北によるゴダゴダや天皇の跡継ぎ問題などがあったが、その一方でいろんな説があった
  • 大海人皇子が向かった不破関は西国と東国を分ける重要な関所であり、ここを抑えた大海人皇子はその後内乱に勝利した
  • 不破関あたりは壬申の乱の他に関ヶ原の戦いの主戦場にもなった

 

最後になりましたが、この壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位して、天智天皇が成し遂げられなかった国内改革を実施。

 

そしてこの時に国号を日本として天皇中心とした中央集権国家として新たなる時代を迎えることとなったのです。

 

壬申の乱は日本の歴史を大きく動かしたターニングポイントだったのですね。

おすすめの記事