幕府を倒し、新たなる時代『明治維新』をスローガンに掲げて始まった明治時代。
『明治』とは、儒教の書物である易経(えききょう)の
「聖人南面(なんめん)して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む(訳:主君が北極星のように顔を南に向けて地に足の着いた統治をおこなえば、天下は明るい方向に納まる)」
から来ています。
欧米列強の植民地化を逃れるため、『和魂洋才(わこんようさい。精神は日本自前の精神で、技術と文明は西洋技術を積極的に取り入れる)』という考えのもと、積極的に西洋の技術、文化、軍事力、さらには西洋に倣った教育制度や法律の整備、憲法の制定に力が入っていきます。
そんな中で、
- 明治維新によってどんなことが起きたのか!?
- どんな偉人を生み出したか!?
- 暮らしや文化はどのように変わったのか!?
などなど、詳しくまとめていきます。
目次
明治時代の出来事や偉人まとめ!
幕府を倒し、天皇をトップに薩長土肥の重鎮が集まって政府を作った明治時代。
これは幕末の尊王攘夷が実った結果でもありました。
- 『尊王(そんのう)』
すなわち天皇を貴ぶという意味であり、文字通り明治天皇を政権のトップとしたこと。
- 『攘夷(じょうい)』
異人=外国人を追い払うというもの。
日本と西洋の技術と軍事力が天と地ほどの差にあるという現実に気づいた維新志士たちが、妥協案『大攘夷(だいじょうい)』すなわち、「いったん開国し、西洋の技術と軍事力を吸収するだけ吸収し、国力が対等になったところで攘夷に踏み切る」という結論でまとまっていた。
明治時代は、この尊王と大攘夷の理念の下、西洋文化と技術、軍事力を吸収するだけ吸収する時代であったといえます。
そして幕末時代に結ばれた不平等条約を改正しようと努力と苦労を繰り返した時代でもありました。
- 治外法権※1
- 関税自主権の放棄※2
この2つは、何としてもなくしたいところでした。
※1(ちがいほうけん。日本の外国人は日本の裁判制度で裁判が受けられず、外国の全く違う裁判制度で受けなければいけないという制度で、軽い刑を受ける外国人が多く不満が多かった)
※2(かんぜいじしゅけんのほうき。外国から輸入される製品に日本自ら税をかけることができず、国内の製品が売れなくなる一因になっていた)
その一方で、台湾や韓国を併合するなど、欧米列強に合わせて諸外国を植民地化した時代でもありました。
しかし明治政府の重鎮や人々が『富国強兵』という統一された目標を基に必死に努力します。
その結果として、
- 日清戦争・日露戦争といった強国への勝利
- 日本の初めてのオリンピック出場
- 南極到達
などといった快挙を成し遂げました。
そして、それまで野蛮な国として見られることがほとんどだった日本が世界の一国として認められることになり、不平等条約を改正することにもつながるのです。
- 政治面
幕末時代、薩長土肥等雄藩の下級武士であった者たちが、明治政府の重鎮として活躍するようになります。
薩摩改め鹿児島県からは西郷隆盛、大久保利通が初期の明治政府を動かします。
長州改め山口県からは西郷、大久保亡き後、伊藤博文、山県有朋が活躍。
土佐改め高知県では坂本龍馬を生んだためか、進歩的な人間が多く、いったん明治政府にいながら辞職した板垣退助、後藤象二郎といった面々が自由民権運動の中心となりつつ、帝国議会が開いた後は内閣にも加わります。
肥前改め佐賀県では、初期は江藤新平が法制度を作りましたが、下野した後不平士族の反乱の神輿にされた挙句処刑。
その後大隈重信も伊藤との権力闘争に向けて下野した後、立憲改進党のリーダーになりつつ、早稲田大学を開いて人々の教育に努めていきます。
- 思想面
勝海舟とともに欧米に留学した福沢諭吉が著書『学問ノススメ』で、江戸時代の儒教的な身分制度を排除し、学問のありなしによる完全実力社会を主張します。
また、坂本龍馬のような開明的な人間を生み出した土佐改め高知県では、自由民権運動の活動家として中江兆民(なかえちょうみん)、植木枝盛(うえきえもり)といった面々が出ます。
明治以降作られた新聞でも、
- 兆民が編集者であった『自由新聞(じゆうしんぶん)』
- 元幕臣の福地源一郎(ふくちげんいちろう)による『東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん。後の毎日新聞)』
など様々な新聞が作られていきます。
- 経済面
元幕臣で日本郵便の父と呼ばれた前島密が郵便制度を作ります。
元薩摩藩士の五代友厚は、証券取引所や造幣局を作って貨幣の統一を行い、経済制度を整えます。
また、元土佐藩士の岩崎弥太郎は、造船を中心に事業を成功させ、三菱財閥の基礎を作ります。
- 教育面
伊藤と薩摩藩士の黒田清隆によって教育の制度が叫ばれた後、津田うめが女性教育に力を入れます。
初代文部大臣の森有礼(もりありのり)によって学校教育制度が整えられた後、元水戸藩士の永井道明(ながいどうめい)が肋木(ろくぼく。小中学校の体育館の壁によくある梯子のような器械)と軍式体操を中心に体育に努めます。
日本柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎(かのうじごろう)は、東洋で最初のIOC(国際オリンピック委員会)の一員として、日本初めてのオリンピック出場に力を入れます。
- 医学面
北里柴三郎が細菌を研究してその治療法を開発した後、志賀潔、野口英世等の研究者を生み出していきます。
江戸後期のシーボルト事件の首謀者であったシーボルトの娘である楠本イネ(くすもといね)は、当時の女性では珍しく西洋医学の知識を学んだ医者となります。
次に、年表についてみていきます。
年表
◎1868年(慶応4年/明治元年)
10月23日、明治天皇が即位。
元号が明治となり、明治時代が始まります。
そもそも元号変更は世直しを掲げて怒るものですが、この改元は戊辰戦争のさなかに行われたものでした。
◎1869年(明治2年)
6月17日から25日にかけて、各大名の土地と人民を天皇に返す版籍奉還を行い、廃藩置県の地固めとします。
6月27日、箱館で旧幕臣を集めて箱館共和国を率いていた榎本武揚が降伏、戊辰戦争が正式に終結します。
7月17日は、江戸が東京と名を改められ、正式な首都となり、8月27日に京都にいた明治天皇が東京にやってきます。
また、この年の間に当時京都にあった政府の機関も東京に移り、一連の移動を『御一新(ごいっしん)』とよばれました。
奈良時代の律令制にあやかって省庁も作られ、宮内省(くないしょう)・民部省(みんぶしょう)・大蔵省(おおくらしょう)・刑部省(ほうむしょう)・兵部省(ひょうぶしょう)・外務省(がいむしょう)の六省も作られ、行政の拠点となっていきます。
◎1871年(明治4年)
7月に廃藩置県が断行し、それまで地方行政のトップであった藩主改め華族は何の権限もなくなり、代わって天皇をトップという形で、県令(けんれい。現代の県知事)を地方に置くトップダウン型の中央集権国という形に改められます。
一方、江戸時代の身分制度であった士農工商は廃止され、藩主と公家は『華族(かぞく)』、旧武士は『士族(しぞく)』、農民・工人・商人は『平民(へいみん)』となり、法律的にはみな平等という事になりましたが、華族や士族への禄(ろく。米で払う給料)の支払いは続いていました。
一方で、江戸時代は幕府と藩とでばらばらであった貨幣が統一され『円・銭・厘』でまとまった『新貨条例』が施行。
旧幕府の領でも旧藩の領でも同じ貨幣で取引ができるようになり、貨幣経済が急速に発展します。
また、東京・京都・大阪で前島密による郵便事業が開発。そこから一気に郵便制度は広がっていきます。
一方、幕末に結ばれた不平等条約改正と欧米の文化の学習のため、岩倉具視、大久保利通といった面々が1年6か月欧米にわたりますが、改正はならず。
1872年(明治5年):国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)により各地に銀行(ぎんこう)が作られ、薩摩藩士の三島家を中心に頭取ができていきました。
また、新橋―横浜間で初めての鉄道ができ、約53分で行き来できるようになります。
その一方、幕末の奇兵隊を発展させた『徴兵令(ちょうへいれい)』もでき、武士に限らず庶民でも一定の身体条件を持っていれば、兵士として借り出されることになりました。
一方で、『学制(がくせい)』が出され教育が義務化され、人々の反発がありつつもどこの地方でも子供が一定の教育を受けられるようになりました。
1873年(明治6年):それまでの月の満ち欠けで暦を図る太陰暦(たいいんれき)が使われなくなり、今と同じ太陽の動きで暦を図る太陽暦(たいようれき。グレゴリオ暦とも)が採用され、暦の測定も西洋に合わせるようになりました。
このころ、欧州の朝鮮半島への進出が叫ばれ他のと、四民平等で士族の不満が高まりそれを鎮めるための目的で、朝鮮半島への進出が主張されます。
これが『征韓論』。
西郷隆盛がこの急先鋒で、彼自ら朝鮮半島へ支社として渡ろうとも考えていたようですが、欧米の状況を見てきた大久保ら岩倉使節団が帰国し反対。
最終的には大久保の勝利に終わり、軍事技術と財政立て直しに専念しようという事になったのですが、不満を抱いた西郷ら征韓論賛成派と、西郷たちを慕う旧薩摩藩士たちは辞職し下野(げや。政府中枢を離れること)します。
経済面では、内務卿(ないむきょう)になった大久保の主導の下、群馬に富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が作られるなど、経済発展と富国強兵の下地ができていきます。
◎1874年(明治7年)
士族の不満が高まっているのを知った大久保は、そのはけ口を作るため台湾出兵を行いますが、うまくいかず。
そんなさなか、不平士族による岩倉具視の暗殺未遂事件も起こります。
さらには、征韓論で下野した江藤新平を神輿に据えた不平士族反乱『佐賀の乱(さがのらん)』が起き、これによって江藤は処刑されてしまいます。
◎1876年(明治9年)
廃刀令によって軍人と警官以外は刀を持てなくなったこと、秩禄処分によって士族への給付が打ち切られて、士族の暮らしが立ち行かなくなり、ついに不満が爆発。
山口の萩の乱(はぎのらん)、熊本で神風連の乱(しんぷうれんのらん)、福岡で秋月の乱(あきづきのらん)と武力反乱が頻繁に起こります。
一方政府は、それまでの米による納税を廃止し、『地租改正』、つまり土地の値段の3%を貨幣で収めるという形に納税を切り替え、貨幣経済を広がらせます。
当初は3%でしたが、高すぎるという事で2.5%に減り、農民の負担は江戸時代の20%減ったといわれています。
◎1877年(明治10年)
不平士族の最後の武力反乱である西南戦争が勃発。
西郷隆盛はこの反乱に神輿として担がれ、最終的には敗れて自害します。
彼の災難と死に悲しみながらも、大久保利通は上野に博覧会(はくらんかい)を開き、当時最先端の産業や、海外にも打って出られる工芸品などを見せ、日本の近代化を必死にアピールします。
◎1878年(明治11年)
5月14日、大久保利通が東京紀尾井坂(きおいざか)にて、不平士族により暗殺。
『紀尾井坂の変』とよばれます。
暗殺されるその日の出立直前、大久保はこんな言葉を残しています。
「明治元年から10年までの10年は戦乱が多く、創業のごたごたの日々だった。
しかしこれからの明治11年から20年までの10年は制度を整え、経済を発展させる建設の時期で、この間は不肖ながら私が勤めたい。
そのあと明治21年から30年までの10年は、優秀な後輩が大きく発展させてくれるはずだ」
その通り、西南戦争と大久保暗殺を機に国内の武力反乱は終結し、以後は言論による戦いへとなっていきます。
◎1880年(明治13年)
自由民権運動の活動家8万7千名が『国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)』を開き、政府に対し国会を開くよう主張します。
これをうけて、
◎1881年(明治14年)
『国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり。詔とは天皇の言)』が明治天皇名義で出され、1890年に議会が開かれることが約束されます。
ちなみにこの年、伊藤博文との権力闘争に負けた大隈重信が下野。立憲改進党を作り、国会開設に備えます。
板垣退助も自由党を作ります。
◎1882年(明治15年)
自由党員によって秩父事件(ちちぶじけん)等、武力蜂起がおこるようになり、保安条例(ほあんじょうれい)として民権活動家の多くが東京から追放、自由民権運動は衰退します。
一方、元薩摩藩士の松方正義(まつかたまさよし)によって日本銀行がこの年に設立。
伊藤博文はドイツへ行き、憲法を作るために勉強を重ねます。
◎1883年(明治16年)
日本の西洋化、近代化をアピールするため、東京日比谷で『鹿鳴館(ろくめいかん)』が建てられますが、条約改正はならず。
◎1885年(明治18年)
内閣制が導入され、初代内閣総理大臣に伊藤が就任します。
◎1886年(明治19年)
小学校令と帝国大学令が文部省から出されます。
これにより、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう、今の小学校)、高等小学校(こうとうしょうがっこう、今の中学校)、中学校(ちゅうがっこう、今の高校)、大学を中心の教育制度ができ、どこの地方でも一定の教育を受けられるようになりました。
◎1889年(明治22年)
大日本帝国憲法発布。
これにより、日本はトルコを除くとアジアで初めての立憲制国家となり、諸外国に近代化したことを強く主張できるようになりました。
◎1890年(明治23年)
第一回帝国議会開設。
その中で、様々な党を抱えた議会が、党同士あるいは内閣で議論しあうという、名実ともに近代国家である下地が出来上がりました。
当初は政府が必死に選挙への干渉をして自由党ら野党を妨害しようとしましたが、2年後の第二次伊藤内閣のあたりから、政府と自由党の歩み寄りが進んでいきます。
◎1891年(明治24年)
大津事件(おおつじけん)勃発。
巡査であった津田三蔵(つださんぞう)が、当時滋賀県大津に訪問していたロシア皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)に切りつけ重傷を負わせた事件です。
ロシアの武力報復を恐れ、内閣ら行政側は法を捻じ曲げても死刑を適用したかったようですが、当時の大審院長官(だいしんいんちょうかん。現在の最高裁判所長官)の児島惟謙(こじまこれかた)は、法律にのっとって一般人殺人未遂による無機徒刑(むきとけい。仮釈放もなく、牢の中で働かされる刑で、現代で言うと終身刑)を取ります。
行政側は報復を恐れたようですがロシアの報復はなく、逆に日本が近代国家として三権分立に向かっているという事を諸外国に証明します。
(なお、津田は釧路集治監(くしろしゅうちかん)で服役した後、2か月後に肺炎で死亡します)
◎1894年(明治27年)
日清戦争勃発
朝鮮半島は一番日本列島に近く、欧米列強が侵略する場合、絶好の拠点であったため、日本は何としても押さえたい所でした。
当時の中国であった清(しん)と朝鮮半島をめぐって激突し、圧倒的な経済力と軍事力を持っていた清に訓練と士気で勝利。
これ以降、日本は欧米列強に認められ、日本も幕末の不平等条約を改正するようにと公に主張するようになります。
そのようなさなか、外相陸奥宗光の主導の下、治外法権が撤廃されるのです。
この時の賠償金は、後に官営の八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)を作るうえでの資金源にもなります。
一方で、これを機に日本は台湾を植民地化し、現地の人の日本語への改名、日本語表記の共生を進めていきます。
そのためか、今も台湾最大の都市・台北(タイペイ)は、日本語で書かれた看板も少なくありません。
(ちなみにここから第二次大戦後までの日本の教科書では、日本で一番高い山は富士山ではなく、『新高山(にいたかやま)』と名を改めた玉山(ユイシャン)と教えられるようになります。)
◎1901年(明治30年)
日清戦争でもらった約3億1千万の賠償金を基に、福岡に官営の八幡製鉄所が建設されます。
後に民間のものとなり、今日でも新日鉄住金(しんにってつじゅうきん)の製鉄所として働いています。
◎1902年(明治35年)
日露戦争勃発。
日清戦争以降、清が軽蔑されより植民地化されていく中で、特に北のロシアの脅威は非常に恐ろしく、特に朝鮮半島が抑えられるのを防ぎたいところでした。
あらかじめ『日英同盟(にちえいどうめい)』というイギリスとの同盟を結び、当時世界第一の大帝国で『栄光ある孤立』を貫きたがったイギリスと同盟したアジア小国という印象を世界に与えた後、ロシアとの戦いに臨みます。
曲折の末、日本は陸戦、海戦ともに勝利したものの、ロシアでは国内で革命がおこり(これがやがて、ロシア帝政の終わりとともに、ソビエト連邦の樹立につながるのです)、日本も経済力が残っていなかったので、外相・小村寿太郎(こむらじゅたろう)が、アメリカ第28代大統領セオドア・ルーズベルトを仲介人として講和条約を結びます。
ここに戦争は終結し、ルーズベルト大統領はこの功績でノーベル平和賞を受賞します。
日露戦争はアジアの小国がヨーロッパの大国に勝利した初めての戦争で、世界史上の意味も大きかったといわれています。(1895年の第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝った例外もありましたが)
◎1910年(明治43年)
韓国併合(かんこくへいごう)。
その前年に第二次桂内閣が併合を閣議決定し、初代朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)であった伊藤博文がロシアとの交渉に向かう途中、ハルビンで韓国人安重根(アンジュウグン)に暗殺されるという事件も起こっています。
伊藤は併合反対派で、あくまで『保護(支配と紙一重とも取れました)』を主張していたようですが、『ニコポン宰相(にこぽんさいしょう。『ニコポン』とは、ニコニコしながら相手の肩をポンとたたく懐柔方法のこと)』と呼ばれた首相・桂太郎の政治力に負けた形でした。
これ以降、日本は朝鮮を植民地とし、現地朝鮮の人の日本語式の名前の改名や、現地のハングルではなく日本語の使用を強制していくようになります。
(なお、今のソフトバンクグループの社長である孫正義(そんまさよし)氏は、佐賀に渡った在日韓国人二世で、朝鮮人への差別を経験しながらも坂本龍馬を理想にしてアメリカにわたり、次々と事業に成功しています。)
◎1911年(明治44年)
外相小村寿太郎の主導の下、関税自主権の回復に成功。
ここに、幕末以来続いていた不平等条約はなくなります。
◎1912年(明治45年)
1月、陸軍軍人の白瀬矗(しらせのぶ)が南極に到達。
当時の南極は今の月というべきものですが、極寒地帯で、植物もほとんどない場所の南極(定義上南極が、世界最大の砂漠と言われます)を探検するのは非常に大変だったものと思われます。
中央部には行けなかったものの、白瀬は遭難することもなく無事帰国。
7月、日本がストックホルムオリンピックにおいて、初めてオリンピック出場。
この時に出場したのが、御存じ大河ドラマ『いだてん』の主人公・金栗四三と、父が薩摩藩士で各国の県令(けんれい。今の県知事)を務めた三島家の次男である三島弥彦の2人。
この時は短距離走に出場した弥彦は予選敗退、マラソン出場の四三は折の炎天下で途中でコースを外れ、倒れて失踪扱い、どちらも目立った成果を出せずに終わります。
しかし日本の南極到達とオリンピック出場によって、ようやく日本は欧米列強から、『Jap(ジャップ。日本人を軽蔑して言う語)』ではなく、『The Japanese(ザ・ジャパニーズ。日本人らしい日本人)』として、正式に認められることになるのです。
そして、7月30日、明治天皇崩御。
皇太子、つまり明治天皇の息子が大正天皇として即位し、元号が明治から大正となります。
ここに、明治時代は終わりを告げるのです。
次に、明治時代に起こった出来事についてみていきます。
明治時代に起こった出来事
大久保の言を借りると、
- 明治期は戦乱メインの第1期
- 産業と制度を整えた第2期
- 外国からの試練が多かった第3期
- 不平等条約撤廃と南極探検・オリンピック出場を成し遂げた最終期の4期
があるといえましょう。
◎第1期:旧体制の武力による一掃と、西洋技術の導入の時期。(明治元年-11年)
明治の最初の2年は旧幕府軍を戊辰戦争で力技で一掃した時期でしたが、これ以降も、四民平等、廃刀令、秩禄処分等で江戸時代の封建的特権をすべて奪われた士族の武力反乱を押さえつけなければならなくなります。
その一方で、西洋に倣った貨幣経済や西洋技術・軍事力の導入を、薩長土肥の旧藩士たちは必死に行います。
『文明開化』の名の下、西洋の食習慣や文化が導入されただけではなく、西洋の考えや精神を必死に取り入れようという運動がおこります。
◎第2期:立憲国家としての制度整備と国会開設までの時期。(明治12年―22年)
西南戦争と大久保暗殺を最後に武力反乱は終わり、言論による戦いがメインになります。
下野した大隈重信や板垣退助が議会中心の政治を求める一方、伊藤はプロイセンで憲法学を学び、天皇をトップとして一致団結を求める憲法を考えます。
奈良時代の太政官制度が廃止されて今の内閣制に切り替えられ、総理大臣も誕生し、刑法も憲法もできました。
その一方、小学校令と帝国大学令で、教育制度も整っていきました。
◎第3期:外国による試練が多かった時期(明治23年―33年)
明治23年に帝国議会が開かれて政府と野党の議論が続く一方、地理的に距離が近い朝鮮半島をどう抑えたらいいかという事が問題になっていました。
外国に占拠されれば日本侵略の足掛かりにされる。
日清戦争で大国・清に勝利したはいいものの、ロシアの干渉を強く受けた日本は、日英同盟を結びつつ、ロシアとの戦いに備えていきます。
◎第4期:不平等条約撤廃と南極探検・オリンピック出場を果たした最終期(明治34年―45年)
ロシアとの戦いに辛勝し、不平等条約を改正しつつも、欧米に倣って韓国を植民地化するという負の遺産も残しました。
その一方、欧米列強がこぞって競い合っていた南極探検やオリンピック出場も果たし、日本は西洋にようやく認められるのです。
第一次大戦後、日本が国際連盟(こくさいれんめい)に加入できた理由にはそれもありました。
次に、明治の偉人達についてみていきます。
明治時代の偉人たち
- 政治面
幕末時代は、薩長土肥等雄藩の下級武士であった者たちが、明治政府の重鎮として活躍するようになります。
薩摩改め鹿児島県からは、倒幕に力を尽くした西郷隆盛、大久保利通といった面々が活躍。
大久保は内務卿(ないむきょう)として、西洋の技術や文化を積極的に導入して国力を高めつつ、欧米にも留学して西洋の制度と技術について学ぼうとします。
その一方、急激な改革から離れる人間を増やさないよう、西郷がその人徳によって多くの人間を引き留めていたのですが、征韓論後この2人は袂を分かち、西郷は維新への不満を持つ士族たちに西南戦争で神輿として担がれた挙句自害。
翌年に大久保も不平士族に暗殺されるのです。
長州改め山口県からは、吉田松陰の下で学んだ伊藤博文、木戸孝允といった面々が活躍。
特に伊藤は積極的に欧米に行き、ドイツの法律家グナイストの下で学び、大日本帝国憲法の設定に力を入れていきます。
木戸も兵制の改革や廃藩置県による中央集権化の立役者になっていくのです。
土佐改め高知県からは、板垣退助や後藤象二郎が、フランスに影響された自由民権運動の中心として活躍。
土佐ではなく紀州(現代の和歌山県)出身ではありますが、坂本龍馬の海援隊に所属していた陸奥宗光は、1894年外相として、治外法権をなくすことに成功するのです。
肥前改め佐賀県からは大隈重信、江藤新平が活躍。
江藤は法律の整備に力を入れますが、征韓論で辞職して佐賀の乱で神輿として担がれ、罪人として処刑されます。
大隈は伊藤との権力闘争に負けた後、イギリス流議会政治を主張しつつ、東京早稲田に東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう。後の早稲田大学)を建てて人々の教育に努めます。
- 思想面
勝海舟らとともに咸臨丸(かんりんまる)で欧米に渡った福沢諭吉が明治の思想の開拓を行います。
『学問ノススメ』で、江戸時代の儒教思想に基づいた『人間は生まれながらにして上下がある』という考えを排除し、
『学問のあるなしによる完全実力社会、人々の自律、努力、学習による「独立自尊(どくりつじそん。一人一人が自立の精神と相応のプライドを持つこと)」のすすめ』
を説きます。
また、坂本龍馬のような開明的な人間を生み出した土佐改め高知県では、自由民権運動の活動家として中江兆民(なかえちょうみん)、植木枝盛(うえきえもり)といった面々が出ます。
彼らがフランスのルソーを中心とした自由民権思想を大きく広めていき、植木に至っては『天皇の元に自由と平等が保障された』、憲法案を自分で書いていきます。
世の中の出来事や自分の意見について積極的に発信する新聞も次々に作られ、兆民が編集者であった『自由新聞(じゆうしんぶん)』のほか、元幕臣の福地源一郎(ふくちげんいちろう)によって、『東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん。後の毎日新聞)』等、様々な新聞が作られていきます。
- 経済面
『殖産興業(しょくさんこうぎょう。産業を発展させて経済力を高めること)』『富国強兵(ふこくきょうへい)』というスローガンの下、経済活動が活発に行われるよう制度が整えられていきます。
元幕臣の前島密(まえじまひそか)によって郵便制が設立され、手紙の行き来がしやすくなったほか、郵便貯金もこのころ導入され、前島が私財をなげうってまで必死に広めようとします。
また、元薩摩藩士の五代友厚(ごだいともあつ)は、実業家として鹿児島に初の近代様式紡績(ぼうせき。カイコのまゆから絹糸を取る産業)工場である鹿児島紡績所、長崎に長崎製鉄所(ながさきせいてつじょ。現在の三菱長崎造船所)等を建てて産業振興に努めます。
さらには、貨幣を統一して経済活動をスムーズにするために大阪に『造幣局(ぞうへいきょく)』を作り、各地の貨幣や偽金を買収して統一された貨幣を作ったり、大阪に株式(かぶしき。企業に活動資金を提供する代わり、その企業の経営に参加する権利を持つ券)の売買の中枢となる大阪証券取引所(後に日本証券取引所の支社となります)を設置します。
こうした結果として、江戸時代は士農工商の最下層に置かれた商人がさらに力をつけ、実業家ないし財閥として、経済発展に力を尽くすようになります。
(余談ですが、維新後没落した士族たちは商人をうらやんで、元新撰組隊士の島田魁(しまだかい)をはじめ商売を始めるものも多かったのですが、江戸時代の居丈高な態度と口調からうまくいかないパターンが多く、『殿様商売』『武士商売』『士族の商法』等と呼ばれていました)
- 教育面
法律によって義務教育が施された後、初代文部大臣(現:文部科学大臣)の森有礼(もりありのり)によって、尋常小学校(今の小学校)、高等小学校(今の中学校)、中学校(今の高等学校)、大学といった教育制度が整備されていきます。
また、女性の教育も盛んに主張され、岩倉具視らとともに欧米に渡った津田うめ、後の津田梅子が、後に津田塾大学(つだじゅくだいがく)を開いて人々の教育に努めます。
富国強兵のもと、日本人が欧米人に合うだけの体格と体力をつける体育も必要とされ、永井道明(ながいどうめい)や嘉納治五郎(かのうじごろう)といった面々が体育に力を入れます。
元水戸藩士(理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽいのが特徴)の道明は、鉄棒を中心とする器械体操、および兵式体操や肋木(ろくぼく。小中学校の体育館の壁によくある木製の梯子のような器械。ぶら下がって上半身の筋肉を鍛える)を広めて体力づくりに向上していきます。
『柔道の父』『日本体育の父』と呼ばれる治五郎は、講道館(こうどうかん)で、小柄な人間が長身の人間を制することもできる柔道を広める一方、日本初のIOC(国際オリンピック委員会)委員として、ストックホルムオリンピックにおける日本の初出場に力を尽くします。
- 医学面
幕末の開国の影響で、西洋医学も導入されたのですが、明治までは伝統的な漢方やお焚き上げやまじないによる治療法がメインでした。
しかし明治期に医学校(いがっこう。医療系専門学校)が津々浦々に設立されると、西洋医学の研究および医学教育が大きく広まっていきます。
東京医学校(とうきょういがっこう。現在の東京大学医学部)で学んだ北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、ドイツでコッホの元に学んだ後、当時日本ではやっていた破傷風(はしょうふう。傷口から破傷風菌が観戦し、高熱やけいれんなどを起こす病気)の毒を消す抗毒素(こうどくそ)を開発し、ノーベル医学賞の候補者にノミネートされます。
(結果は、共同研究者のドイツ人・ベーリングだけが取れましたが、人種差別故という明確な根拠はないようです)
福沢諭吉の援助の元、私立伝染病研究所(しりつでんせんびょうけんきゅうじょ。のちに内務省の傘下となって国立伝染病研究所となり、現在の東京大学医科学研究所の前身となります)を設立した彼は、ペスト菌を発見する快挙も成し遂げます。
また女性では、シーボルト事件の首謀者であるフランツ・フォン・シーボルトの娘、楠本イネ(くすもといね)が、西洋医学を学んだ産婦人科医として活躍します。
(余談ですが、イネの娘・高子は非常な美女であり、漫画家の松本零士氏は彼女の写真をモデルに『銀河鉄道999』のヒロイン・メーテル、『宇宙戦艦ヤマト』のヒロイン・スターシャを作ったとされています)
次に、年表についてみていきます。
明治時代の暮らしについて
首都がおかれた東京に、西洋の食事や文化が導入されました。
しかしまだまだ西洋の服や暮らしになじめない人間が多く、家では和服に着替える人間が多かったとか。
また、西洋建築の自宅もなじめなかったうえ、庶民には高根の花で、江戸改め東京でもやはり木と紙でできた日本建築が一般市民には多かったようです。
また、西洋暦時法が導入され、『午の刻(うまのこく)』が『午後0時』と呼ばれるようになるのも明治期ですが(それで『正午』というのです)、お寺の鐘や朝日で起床するのは相変わらずで、時計も目覚まし機能はもちろんなく、輸入に頼っていましたから、現代価格で約6000円と高値でした。
国産の西洋式時計は服部金太郎(はっとりきんたろう)の精工舎(せいこうしゃ。今の時計メーカー・セイコーホールディングス)によって1892年(明治25年)にやっと作られます。
その一方、明かりは、江戸時代の行灯(あんどん。ろうそくを木と障子で囲んであかりにした代物)からガラスと石油を使ったランプに変えられました。
夜の家はかなり明るくなりました。
(エジソンが電灯を発明するのはもう少し先)
さらに、火をおこすのにかなり力のいる火打石から、西洋に合わせマッチが導入され、力の弱い女性でも簡単に火おこしができ、急速にマッチ産業が発展します。
次に、服装や食事について語っていきます。
服装や食事について
- 『西洋に追いつけ追い越せ』
- 『文明開化(ぶんめいかいか。文明を花開かせるという事)』
を名目に、西洋の建築技術や食物が、どっと入っていきます。
まず欧米人に倣って、ちょんまげを切り落とし、(すでに幕末のころから、まげは残して頭をそらないという『総髪(そうはつ)』がはやっていましたが)、散切り頭がもてはやされていきました。
『散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする、ちょんまげ頭を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく。その場しのぎでこせこせしていること)の音がする』というざれ歌も流行ったほど。
また、江戸時代は『戦国の雰囲気を醸し出す』という事ではやらなかったヒゲが、欧米人にあやかって政府や企業の人間を中心に広がります。
そして牛鍋(ぎゅうなべ。牛肉を野菜とともに煮込んだもので、今のすき焼きに近いのです)や、明治32年に始まったカツレツを中心に、西洋の食事も導入され、庶民もたしなんだほど。
特に文明開化の中心地とされた東京銀座は、今日でも続くカツレツ等の老舗が多くできるようになりました。
アンパンも銀座木村屋(ぎんざきむらや。現代の銀座にもオフィスがあります)が作って急速に広めていきます。
また現在につながる洋服も、軍部から先に取り入れられ、その動きやすさが注目されていきます。
西洋の技術や文化に関しては、福沢諭吉の『西洋事情(せいようじじょう)』や、当時の新聞が大きく発信し、人々の興味をそそっていくのです。
西洋の技術と軍事力だけでなく、文化も幅広く導入しようとしたことが、人々の西洋文明への興味を掻き立てたのは想像に難くありません。
ただ、それでも西洋服や西洋の食事はまだ上の人間しかたしなむことはできず、農村や地方都市の零細(れいさい。収入がほとんどゼロかマイナス)な人間はいまだに和服や雑穀しか食べられないのが実情だったようです。
明治期の女学生にありがちな『上は着物で下は袴、ブーツに自転車』というのは、西洋の合理性と今の日本の乏しい財政を取り入れた和洋折衷案と言えます。
女学校では机に椅子という西洋式のセッティングで授業していたという事もありましたが。
(ゲーム『サクラ大戦シリーズ』のメインヒロイン・真宮寺さくらの格好もこれを意識したかと)
一方で、『ちゃぶ台(西洋ではダイニングテーブル)』もこのころ発明され、一つの机で家族みんながそろって食事をとるという習慣もこのころ出来上がります。
一般大衆に西洋の文明が広がるのは、大正あたりになってからと言えましょう。
次に、文化についてみていきます。
文化について
こちらも西洋の技術を取り入れるため、西洋式の煉瓦建築が多く取り入れられるようになりました。
特に初めて汽車が通った新橋と、経済の中心地であった日本橋の間に位置した銀座では、アイルランドのお雇い外国人ウォートルスの主導の下、文明開化の発祥地として次々に西洋の煉瓦建築、ガス燈、街路樹が建てられていきます。
これは江戸時代に火事が多く、建物も木と紙でできていたことから火が燃え広がりやすかったという事で、火事が広まらないように着火しにくい煉瓦建築をなるべく設置したいという思いもありました。
イギリスロンドンのリージェントストリートにならって作られた銀座街は、下町でありながら華族や財閥の住む町となっていきます。
一方庶民の街として有名な下町にも、12階建てでレンガ造りの展望台であった凌雲閣(りょううんかく)が建てられ、1912年の関東大震災で倒れるまで、浅草のシンボルとなっていきます。
(学生時代の夏目漱石も、当時低く見られていた文学より、建築を極めたいと思っていたようです)
建築技術だけでなく、思想や文学においても、西洋の在り方を見習おうという動きが大きくなります。
とくに近代明治の精神論で大きな役割を果たしたのが福沢諭吉。
『学問ノススメ』の『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり』、というくだりは有名ですが、そのあとに
『されども今廣(ことごと)く此(この)人間世界を見渡すに、かしこき人ありおろかなる人あり、貧しきもあり冨めるもあり、貴人もあり下人もありて其有様(そのありさま)雲と坭(うんでとでい。文字通り『雲泥の差』という意味)との相違あるに似たるは何ぞや』
と書いたうえで、江戸時代の家柄だけで身分の上下が決まる封建社会や儒教思想を排除し、学問の有無による完全実力社会にこれからなっていくこと、またそうなるべきことを語っております。
これは『生まれながらにして人間には上下がある』と考えていた多くの日本人に衝撃を与えます。
(権利としての平等は主張していませんが、そもそも今の落語界や相撲界、さらにはホームレスの社会すら、一般のサラリーマン以上に露骨な縦社会と言われていますし、ドラえもんののび太・ジャイアン・スネ夫の関係が、子供社会の縮図と考える人もいます。
つまり人が集まって『社会』ができれば、人々の力の差が必ず現れて人の扱いに差が出るのは必然ということでしょうか。)
そのうえで『独立自尊』を主張し、
「政府は人々の質によって成り立ち、国民の質が悪ければ悪しき政府が、良ければよい政府が起きる。自分たちは法律で守られているのも知らず、法律を破って一揆などの破壊活動を起こすのはよくない。
怠惰で易きに流されるのではなく、自らよく学んで自分のルールで自身を律する『自立・独立の精神』を一人一人が持っていることが大事なのだ」
と語っていくのです。
文学においても、『和魂洋才』が叫ばれる中で、大きな変革が起こります。
それまでは江戸時代の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』を中心に、『勧善懲悪物(かんぜんちょうあくもの。悪を懲らしめ善を進めるというストーリー)』や、『西洋道中膝栗毛(せいようどうちゅうひざくりげ)』などのような、江戸時代の名作に倣ったストーリーが書かれていました。
外国に留学した坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が、外国文学に倣って『写実主義』、すなわち、
『小説は人情、つまり人間の心理を細かく描写するのが第一であり、善悪や世の中のことは二の次がいい。心理学者のような心理描写で人間を「仮作る(つくる)」べきだ』
と『小説神髄(しょうせつしんずい)』で主張します。
ここから、森鴎外や尾崎紅葉といった、人間の感情と理想を強調して描く『浪漫主義(ろまんしゅぎ)』
フランスの作家でその大家と呼ばれるエミール・ゾラを手本にし、人間や社会の醜い面を隠さず描こうとした『自然主義(しぜんしゅぎ)』というように文学が発展していきます。
(ちなみに日本の自然主義文学者には、田山花袋(たやまかたい)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)等がいますが、ゾラに比べて人間や社会の描写は浅いとされています。
そして自然主義文学に不満を持っていた夏目漱石が『道草』で、皮肉にもゾラに匹敵する自然主義小説を完成させることになるのです)
それにより、それまで『婦人や子供の見る物』と低く見られていた小説が、芸術の先端として注目されていきます。
(今でいうと、かつて子供向けとして大人に敬遠されていたアニメ・漫画が、今ではクールジャパンの一角としてもてはやされるような変化でしょうか)
次に、明治時代になって貨幣経済が一気にメインとなりますが、その貨幣価値について調べていきます。
貨幣価値について
江戸時代は幕藩体制、つまり幕府直轄地以外は各大名がめいめい自由に治めてきたこともあって、『江戸は金貨、大阪は銀貨、それ以外は銭』と通貨単位もばらばらで、なおかつ物々交換も多かったのが実情でした。
(江戸幕府は自給自足と物々交換による自然経済を善、貨幣を使った商品経済を悪としてきたこともありました。
『自分で汗をかかずに、貨幣などという小さな引換手形で物を手にするなどもってのほか』という考えがあったと思われ、それが今日の日本でも『預貯金が美徳で投資はギャンブル』という考えが強い一因となっております)
しかしそれでは取引において不便なので、物々交換を廃止し、貨幣単位が統一され、『円・銭(せん)・厘(りん)』という形となります。
これが第二次大戦後、貨幣単位が『円』の一つになるまで続いていきます。
ちなみに明治時代の1円は、現代価格で言うと3600円だったとか。
夏目漱石の『坊ちゃん』において、坊ちゃんは月給40円で教師になり、退職後は月給25円の街鉄(がいてつ。路面電車)の技術者になったという事でしたが、現代価格に直すと教師が月給14万、街鉄の技術者が月給9万と言えましょう。
次に、明治時代が西暦何年から何年まであったのかについてみていきます。
明治時代は西暦何年から何年まであったの?
一般的には、1868年10月23日の明治天皇即位から、1912年7月30日の明治天皇崩御までと言われています。
ただ、その前の天皇であった孝明天皇の崩御が1866年で、その時に後継ぎは明治天皇と決まっていたので、明治天皇の即位期間とは一致していないというのが本当のところのようです。
次に、明治時代を書いた歴史本についてみていきます。
明治時代を描いた歴史本
- 司馬遼太郎著『坂の上の雲』
「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている」この書き出しで始まり、ご存じドラマ化もされた、司馬遼太郎の代表作。
明治期の日本を『少年の国』と例えつつ、近代俳句の元を作った正岡子規(まさおかしき)、日露戦争で日本の勝利に貢献した秋山好古(あきやまよしふる)、真之(さねゆき)兄弟を主人公に、明治期の日本が欧米列強の侵略防止と不平等条約改正に向けて努力していく姿を描きます。
ただ、小説を面白くするためにフィクションも多く、史実を知るのには向きません。
- 原田伊織著『明治維新という過ち』
幕末の長州志士を育てた吉田松陰をテロリストとし、明治時代とその維新を『過ち』という観点で描いた本。
『勝てば官軍』という言葉に代表されるように、歴史では勝者が善、敗者が悪とされるものですが、えてして歴史の50年後、100年後に再評価がされるのは必然ということで、維新を悪という形にしています。
(夏目漱石の坊ちゃんでは、倫理観を持つ坊ちゃんと同僚が、腹黒い教頭と取り巻きの教師を生卵とげんこつで成敗した後、辞職して去る、つまり負けたというシーンがありますが、これは勝てば官軍のアンチテーゼであると私は思っています)
確かに大政奉還直後に起きた王政復古の大号令は、明確なクーデターと言っていいでしょう。
しかし諸外国と強大な武力を背景に不平等条約を結ばされたこと、その前の寛政・天保の改革の失敗や、当時天罰と思われていた自然災害が頻繁に起こって、幕府の支配に疑問を持つ人間が多くなったこと。
このことを考えれば、遅かれ早かれ幕府消滅は避けられなかったのではないでしょうか。
歴史にもしもはありませんが、王政復古がなく大政奉還がうまくいった場合は、天皇が飾り物で徳川将軍がトップとなったのは間違いなし。
この場合、技術や文化の西洋化はもっとゆっくりで、相変わらず貨幣経済が悪とされる時代になったのではないでしょうか。
そのほかにも様々な書物がありますが、様々な観点があってもおかしくないでしょう。
南北朝時代においては、
- 後醍醐天皇の子孫を率いる南朝が正しいとされる『神皇正統記(じんのうしょうとうき。明治政府はこれを正しい歴史としております)』『太平記(たいへいき)』。
- 北朝が正しいとしている『難太平記(なんたいへいき。太平記に疑問を出す本という意味)』
等があり、どちらの視点も参考にするべきだとは思いますね。
まとめ
- 『尊王』『大攘夷』を名目に、西洋の技術と軍事力が急速に導入されたのが明治時代。
- 西洋を手本に、教育制度、法律、軍備などの欧米化・近代化が急速にすすめられた結果、立憲君主制の国家になったという事を世界に知らせられた。
- しかし西洋式の文化の多くは当時輸入品で高価であったため、都市の政府高官や金持ちしか当時たしなむことができず、地方や庶民にまで浸透するのは大正期を待つことになる。
これが真実のようです。
『和魂洋才(わこんようさい)』、つまり精神より技術のほうが広がりが早かったといわれていますが、これは人間どうしても精神改革しようとすると時間がかかり、技術導入のほうがやりやすかったためと思われます。
(偏見の精神的・感覚的な面は子供時代に作られ、それを正当化する理屈の部分はもう少し後で作られるといわれています。
つまり、どうしても偏見を直そうと考えても、感覚的な部分を直すのは極めて難しいのです。)
明治時代以降、日本の文明が急速に発展し、欧米列強の植民地にもならずに南極到達、オリンピック出場といった快挙ができた背景には、日本の上にも下にも、
『西洋の植民地にならないために、文明と教育を取り入れるべきだ』
という意識が強く、一致団結でき、その目標に向かって進み続けられてきた結果なのだと思います。
これは第二次大戦後の復興にも言えることですが、日本人は横並び志向の強さもあって、集団の目標が共通していると、強靭な意欲と向上をすることができるのです。
しかしこれは裏返せば、戦国や幕末など、答えの見えない変化の時代には弱く、出る杭は打たれる社会だからなかなか突出する人間がでてこないということでもあります。
今はイノベーション、つまり変革の時代と言われて久しく、一人一人が答えの見えない中で手探りを探す時代と言われていますが、だからこそ、いのいちに模範となるべき人間を探し、その人間にあやかる必要があるのかもしれません。