今回は五榜の掲示について詳しく解説していきたいと思います。
- 五榜の掲示とは?
- 誰が出したものなのか?
- 内容や現代語訳について
- 高札が使われたのは五榜の掲示が最後だった?
他に、なぜ旧幕府の理念を継承しているのか?や、五榜の掲示と五箇条の御誓文の違いについても解説していきたいと思います。
まずは五榜の掲示とはどんなものかについて説明していきますね!
目次
五榜の掲示とは?
五榜の掲示とは、慶応4年3月15日(1868年4月7日)に、明治政府から民衆に対して出された五つの高札のことを言います。
そして、明治政府が民衆に出した最初の禁止令です。
当時、江戸幕府から明治政府に変わり、物価の上昇や治安が不安定になり「世直し一揆」や「ええじゃないか」で日本は大混乱になっていました。
そこで明治政府は、これからの方針と国民に対しての決まり事を定めて、新政府の暫定的な姿勢を表明することで、世の中を安定させようと五榜の掲示を発布したのです。
また、この頃は戊辰戦争がまだ続いていた為、奥羽越列藩同盟に入っている東北地方の藩では、五榜の掲示は出されませんでした。
次は五榜の掲示は誰が出したのか説明していきますね!
誰が出した?
明治政府の太政官が発布しました。
次は五榜の掲示の内容について解説していきます!
内容
五榜の掲示の内容について書いていきます。
第一札
人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等の惡業アル間敷事
第二札
何事ニ由ラス宜シカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒黨ト唱ヘ徒黨して強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ或ハ申合セ居村ヲ立退キ候ヲ逃散ト申ス堅ク御法度 タリ若右類ノ儀之レアラハ早々其筋ノ役所へ申出ヘシ御褒美下サルヘク事
第三札
切支丹邪宗ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所へ申出御褒美可被下事
第四札
今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ後條理ヲ追ヒ外國御交際ノ儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被爲成萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候ニ付テハ全國ノ人民 叡旨ヲ奉戴シ心得違無之樣被 仰付候自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悖リ御國難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦 御交際被 仰出候各國ニ對シ 皇國ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ輕重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍至當ノ典刑ニ被處候條銘々奉 朝命猥リニ暴行ノ所業無之樣被 仰出候事
第五札
王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定萬民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候樣 御煩慮被爲 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候樣ニテハ不相濟候自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ猥ニ士民トモ本國ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候萬一脱國ノ者有之不埒ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 皇國ノ御爲叉ハ主家ノ爲筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公正ノ心ヲ以テ其旨趣ヲ盡サセ依願太政官代ヘモ可申出被 仰出候事
但今後總テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出處篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埒出來御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事
次は実際に何について書かれているのが現代語訳にして解説していきます!
現代語訳
- 第一札:五倫道徳遵守
- 第二札:徒党強訴逃散禁止
- 第三札:切支丹邪宗門厳禁
- 第四札:万国公法履行
- 第五札:郷村脱走禁止
第一札の「五倫道徳遵守」は五倫の道徳を守ること。
そして、殺人・放火・強盗を禁止しています。
五倫とは君主、父子、長幼、夫婦、朋友のことで古来の中国の思想である儒教の教えを説いています。
簡単に説明すると目上の人には従い、親を大切にし、年配者や小さい子供は守り、子を敬い、夫婦仲良く、友を大切にしなさいということです。
第二札の「徒党・強訴・逃散禁止」は徒党(グループ)を組んで政府に反抗したり、暴動、犯罪をしてはいけないということです。
先ほども書いたように、この頃日本では世直し一揆やええじゃないかが多く起こっていました。
そこで、明治政府はそれらを通報して政府に知らせてくれた者には褒美を与えるなどの処置も行なっていたそうです。
第三札の「切支丹・邪宗門厳禁」はキリスト教を禁止しています。
しかし、この第三札は掲示からわずか48日後の慶応4年閏4月4日(1868年5月25日)には、当初「切支丹邪宗門」と一括りで表現されていた文言を「切支丹宗門」と「邪宗門」とに分け別条にし、更に密告褒賞を削除するという変更がされました。
この対応は、キリスト教を信仰している欧米諸国から批判を受けたため、すぐに訂正したと言われています。
第四札の「万国公法履行」は外国人への暴力を禁止しています。
幕末の頃、日本では外国排斥の考えを持つ「攘夷派」の人々が多くいたのですが、明治時代になってからは攘夷運動をやめて諸外国と仲良くしていきましょうという考えを打ち出していきました。
第五札の「郷村脱走禁止」は犯罪をした人がどこかに逃げるという行為を禁止しています。
明治になっても、江戸時代同様に勝手に自分が住んでいるところがら逃げたり、住んでいるところを変えることは禁止されていました。
五榜の掲示が出された明治時代初期は国内が混乱していましたが、戊辰戦争が終わり、世直し一揆も起きなくなり、国内も安定し始めた1873年に五榜の掲示のほとんどが廃止されました。
これから先は国民に決まり事を発表する場合は天皇からの通達である「詔勅」や、日本政府のトップである太政官からの布告となっていきました。
次は、高札が使われたのは五榜の掲示が最後だった?について解説していきます。
高札が使われたのは五榜の掲示が最後?
明治時代になり、日本では印刷技術が飛躍的に伸びていき、新聞や雑誌などの紙媒体を利用したものが発展していったため、五榜の掲示が最後の高札となりました。
では次に、五榜の掲示はなぜ旧幕府の理念を継承しているのか?について説明していきますね。
なぜ旧幕府の理念を継承しているのか?
五榜の掲示がなぜ旧幕府の理念を継承しているかというと、江戸幕府から新政府に変わった事は変わったが、新国家の体制が全く整っていなかったからではないかと言われています。
財政基盤が不安定で物価は高騰し、不平士族は大勢いて、各藩はそのままという状況で、全く新しい制度を打ち出しても更に混乱を招くだけで上手くいくはずがありません。
早急に改革する事が必ずしも良い結果を招く訳ではないということです。
それに、新政府は江戸幕府のやり方を全て否定していたわけではなく、あくまでも外交や政治的考え方が違っていただけで、五榜の掲示にあるような民衆統制について否定して倒幕したわけではないのです。
では次は五榜の掲示と五箇条の御誓文の違いについて解説していきますね。
五榜の掲示と五箇条の御誓文の違いは?
五榜の掲示と五箇条の御誓文の違いは何かと言いますと、五榜の掲示は民衆に向けて出した禁止令で、五箇条の御誓文は公家や大名に向けて出された基本方針なのです。
発布された対象が違っていたんですね。
ちなみに、五箇条の御誓文は3月14日に発令され、五榜の掲示はその翌日の3月15日に発布されました。
最後に五榜の掲示についてまとめていきます。
まとめ
五榜の掲示についてまとめます。
- 五榜の掲示とは慶応4年3月15日(1868年4月7日)に、明治政府から民衆に対して出された五つの禁止令のことをいう
- 五榜の掲示を出したのは明治政府の太政官
- 五榜の掲示の内容を簡単に説明るすと、道徳を守り、一揆は起こすな、キリスト教を信仰するな、外国人に暴力を振るうな、罪を犯して逃げるななど、旧幕府の理念とあまり変わらないものだった
- 明治時代になり、印刷技術が飛躍的に伸び、新聞や雑誌などの紙媒体を利用したものが発展していったため、五榜の掲示が最後の高札となった
- 五榜の掲示が旧幕府の理念を継承しているのは、まだ日本中が混乱していて新国家の体制が整っていなかったから
- 五榜の掲示と五箇条の御誓文の違いは、五榜の掲示は民衆への禁止令で、五箇条の御誓文は公家や大名に出された基本方針であった
結局のところ、五榜の掲示は新政府の当初の暫定的な姿勢を表明したものであり、旧幕府の民衆統制と変わらない内容であり、6年も経たないうちに全て消え去る事となりました。
五榜の掲示は新国家が安定するまでの繋ぎとしての役割を果たしていたと言えますね。