今回解説していくのは安政の大獄を行った井伊直弼!
井伊直弼によって幕府は大きく動きましたが、今回はそんな井伊直弼について
- 井伊直弼が安政の大獄を行った理由
- 井伊直弼の生涯
- 井伊直弼の子孫や家紋について
- 井伊直弼と一期一会の関係
などなど詳しく解説していきたいと思います!
目次
井伊直弼とは?
最終的には大老という幕府の臨時最高職まで上り詰めた井伊直弼。
しかし、若かりし頃はかなり不遇な人生を歩んでいました。
まず、井伊直弼は14男。
普通は長男に継続されるもので長男がいなかったら次男に渡される形であったので普通に考えたら井伊直弼に家督が回ってくることはありません。
さらに14男でも家督をつげる道である養子も母が側室であり、両親を亡くしたことがあって養子すらなれない状態となってしまいます。
井伊直弼はもう家督をつげる希望もないと出家しようと志していたそうで部屋住みとして国学、禅、和歌、武術、茶道、能楽など様々な分野で達人級となっていくのですが、そんな矢先32歳になると家督を継ぐはずであった井伊直元が死去。
さらに他の兄弟も養子に出されているか、亡くなっているかのどちらかであり、当時の当主であった井伊直亮は井伊直弼を養子として彼に家督を継がせたのです。
井伊直弼は彦根藩主となり、井伊家の役割である譜代大名筆頭として幕政に参加。
1853年にペリーが来航してからは幕府の政治に積極的に関わり、将軍家の跡継ぎ問題の時には大老となり徳川慶福を強引ながらも将軍に据える活躍を見せ、さらにはアメリカとの間で日米修好通商条約を締結する活躍を見せます。
しかし、あまりにも過激すぎた政策は元々徳川慶福と対立していた一橋派の大名と敵対することになり、さらには尊王攘夷派の武士たちも抗議する事態に陥ります。
井伊直弼は一橋派の大名や尊王攘夷派の武士を排除するいわゆる安政の大獄を行うのですが、これによって恨みを買ってしまい1860年に桜田門外にて暗殺されることになるのです。
年表
1815年 彦根藩にて生まれる
1850年 井伊家の藩主となる
1858年 井伊直弼大老に就任
1858年 安政の大獄、始まる
1860年 桜田門外の変 井伊直弼暗殺される
日米修好通商条約の締結は渋々だった?
井伊直弼が幕府にて働き始めた頃日本という国はとても危ない状態となっていました。
1853年にペリーが来航して日米和親条約を締結して長きにわたった鎖国は終わりを迎えていましたが、さらに井伊直弼が大老に就任した直後には新しく下田に置かれた総領事であるダウンセント・ハリスが神奈川沖まで軍艦を引き連れて通商を求めてきたのです。
もちろん、井伊直弼はアメリカの要求を突っぱねればとんでも無いことになることは火を見るよりも明らかなのですが、少しこの条約の締結には問題がありまして、条約というものは基本的には天皇の裁可がなければ締結することはできなかったのです。
天皇の方はというと当時天皇であった孝明天皇は大の外国人嫌い。
「外国人を追い出せ!」と躍起になっており、条約の締結は絶望視されていたのですが、井伊直弼は結ばなければとんでも無いことになると思っていたのでなんとか裁可を求めるのですが、朝廷の意向は得ることができず。
最終的には朝廷の裁可なしに、渋々と日米修好通商条約を締結したのでした。
安政の大獄を断行した理由
安政の大獄を行なった理由はなんといっても、
- 将軍後継問題
- 攘夷派の活動
がありました。
まず、この頃の日本は通商を求めに来たアメリカとの対応でかなり苦しい状況。
そこに家定が病弱だったものですからどうにかして後継ぎを探さなければならない状態だったのです。
まず一つ目の案が元々水戸藩主であった徳川斉昭の息子であり、一橋家に養子に出された一橋慶喜(のちの徳川慶喜)。
彼は聡明という噂があり、松平春嶽や島津斉彬などから支持を得ていました。
二つ目の案が紀州藩主の息子である徳川慶福(のちの徳川家茂)。
彼は水戸徳川家の最大の弱点である血統がないため、将軍家との繋がりがある紀州藩主の息子から将軍にしようと考え、大奥や井伊直弼などから支持を得ていました。
大老であった井伊直弼はゴリ押しに近い形で将軍徳川家定の名を使い、跡継ぎを慶福とすることを発表。
こうして将軍の跡継ぎ問題は終わりを迎えたかに見えましたが、これにブーイングをかけたのが水戸藩や福井藩や薩摩藩といった一橋派の大名たち。
島津藩主の島津斉彬は自ら江戸に登ろうとしたほどでしたが、井伊直弼はこの大名を追い払い、そして一橋慶喜や徳川斉昭と言った人たちを弾圧していったのです。
これがいわゆる安政の大獄というもので、水戸藩が尊王攘夷派の急先鋒であったがために長州藩の吉田松陰らといった尊王攘夷派の武士も処刑されたのです。
(ちなみに、安政の大獄は吉田松陰が処刑されたから尊王攘夷派の武士を処罰されたかのように見えますが、実際には一橋派の排除が目的だったそうです。)
桜田門外の変での壮絶な最期
こうして安政の大獄によって幕府を動かしていましたが、もちろん安政の大獄による大量処罰はいろんな人を敵に回してしまいます。
特に一番怒っていたのが一橋派の最大派閥であり、安政の大獄によって被害を受けた水戸藩。
そして水戸藩を脱藩して江戸にいた水戸浪士17人と薩摩浪士1人は井伊直弼を暗殺する計画を実行していくことになるのです。
1860年3月3日井伊直弼は幕府の恒例行事となっていた桃の節句(ひな祭り)の登城のために江戸城に行くことになります。
襲撃犯はこの当時大変ブームになっていた大名行列の見物をしているふりをして井伊直弼が江戸城に入る桜田門の前に待機していました。
こうしてなんとか紛れることに成功した襲撃犯は井伊直弼の行列が来た時に襲撃を開始。
普通なら圧倒的に護衛が有利でしたが、最悪なことにこの日は季節外れの雪が降ったりして護衛達はこの時雪のための服装をしていました。
さらに刀に雪よけの袋をかぶせていたためすぐに刀を抜くことができませんでした。
こうして刀を抜こうともたもたしている時に水戸浪士の一人であった黒澤忠三郎が井伊直弼が乗っていた駕籠めがけてピストルを撃ち込みます。
見事にピストルの弾は井伊直弼に直撃。
腰を打たれたことによって動けなくなり、せっかく特技としていた居合斬りの技ができなくなってしまいました。
こうして大混乱に陥った井伊直弼や井伊直弼の護衛たちはつぎつぎと倒されていき、そして有村次左衛門の手によって井伊直弼は駕籠から引き摺り下ろされて首を斬られてしまったのです。
井伊直弼の首の行方は?
井伊直弼が暗殺されたあと、井伊直弼の首は水戸藩士が所持していました。
その後首を所持していた藩士は幕府側の若年寄である遠藤胤統に渡され、最終的には直弼の首が彦根藩に渡りました。
しかし、徳川幕府の大老が暗殺されたことは知られたくありません。
そこで彦根藩側は首と胴を繋ぎ合わせてなんとか病気によって死亡したと見せかけたのです。
(もちろんそんな小細工は庶民は分かっていましたけどね)
その後井伊直弼の亡骸は菩提寺である豪徳寺に埋葬されたそうですが、なんと2016年に調査したところ豪徳寺の井伊直弼の墓には彼の亡骸がないというのです。
おそらく彦根に移されたのかもしれませんが、真相は謎のままです。
井伊直弼の写真
残念なことに井伊直弼の写真は存在していません。
そもそも彼がいた時代には写真があまり普及しておらず、そのため従来の肖像画は残っているのですが、写真を撮ることはなかったのかもしれません。
しかし、息子である井伊直憲の頃には写真が普及しており、彼の写真なら存在しています。
井伊直弼の子孫
井伊直弼が亡くなったあと、井伊家は衰退していくのですが、なんとか10万石減らされながらも彦根藩の存在はみとめられ廃藩置県を迎えることになります。
息子の直憲
井伊直弼の次男である井伊直憲は井伊直弼が桜田門外の変にて暗殺されると不遇の時代を迎えることになります。
桜田門外の変が起こったのち幕府は一橋派の大名が政権を握るようになると彦根藩は井伊直弼の政治を咎められ35万石から25万石に減らされることになり、最終的には貢献しようとした幕府と敵対関係となってしまいます。
そのため彦根藩はこの頃から倒幕派となり、戊辰戦争の時には新政府側として参加。
そのまま新政府側として政治改革を行い、1871年に廃藩置県を迎え、伯爵として華族に列せられたのでした。
家紋
井伊直弼の出身である井伊家は橘紋が主流でした。
橘という植物は昔から日本に自生する常緑樹で、奈良時代の頃から生命力や長寿のシンボルとされており、長きにわたって家が繁栄するようにと願ったものだと言われています。
ちなみに、井伊家が使っていた橘紋は井伊橘といって他の橘紋とは区別されていました。
井伊直弼の墓は?
井伊直弼の墓は東京都世田谷区の豪徳寺にあります。
豪徳寺という寺は彦根藩2代藩主である井伊直孝から井伊家の菩提寺として代々彦根藩主が眠っています。
一期一会は井伊直弼が広めた?
「一つ一つの出会いを大切にしましょう」という考え方の一期一会。
元々は茶道の言葉だったそうですが、実は井伊直弼がこの言葉を広めた人物と言われているのです。
この言葉は元々茶道を大成させた千利休の言葉と言われているのですが、これは弟子の山上宗二という人が間接的に残しているもので実際には分かっていませんが、井伊直弼はこの言葉を著者である茶湯一会集という形で巻頭に一期一会という言葉が残っているのです。
大河ドラマ花の生涯での井伊直弼
今ではおなじみとなっているNHKの大河ドラマ。
その最初の作品となった花の生涯の主人公こそが井伊直弼だったのです。
主人公である井伊直弼は2代目尾上松録であり、モノクロでありながらも当時としてらかなり革新的なないようだったそうです。
今ではこの作品は第1話と桜田門外の変がテーマである38話のみであり、この作品はほとんど見ることはできませんが、井伊直弼の生涯から現在にもわたって続いている大河ドラマがあるのです。
現代における井伊直弼の評価は?
井伊直弼といえば安政の大獄を行なったとされる政治家として知られており、かなり冷徹な人間と思われるかもしれません。
実際、彼は安政の大獄によって一橋派の大名や尊王攘夷派の武士を弾圧していきましたが、もし井伊直弼でなかったらおそらく朝廷の意見を聞かずに条約を結んでいなかったのかもしれなかったのです。
そうなるとアメリカが何をしでかすかわかりませんし、もしかしたら尊王攘夷派の武士が暴れまわったことも相まって薩英戦争みたいな戦争が江戸でも起こったかもしれないのです。
たしかに、そのやり方は苛烈なものだったのかもしれませんが、だからといって井伊直弼がひどい政治家ではなく、日本をなんとかするという考えのもとで行ったものだというのはわかってほしいと思います。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめです。
- 井伊直弼は一橋派の大名を排除するために安政の大獄を行った
- 井伊直弼は元々14男で当主になれる家系ではなかったが、偶然が重なり当主になった後に大老となった
- 井伊直弼が亡くなった後は次男が継いだが、彦根藩は大きく減封された
- 井伊直弼は著書にて一期一会という言葉を広めた
最後になりましたが、井伊直弼がいたからこそ幕府というものは無くなったものの、外国からの侵攻からは防いだと思います。
井伊直弼の新しい評価が普及してくれれば嬉しいですね。