岡田以蔵(人斬り以蔵)の生涯!坂本龍馬や新撰組との関係や愛刀についても

今回解説していくのは人斬り以蔵と恐れられた岡田以蔵!

今では幕末の志士として人気のあるキャラクターとなっていますが、果たして、実際の岡田以蔵とはどんな人物だったのか!?

 

今回はそんな岡田以蔵の、

  • 生涯について
  • 愛刀について
  • 坂本龍馬や新撰組との実際の関係は?
  • 龍馬伝における岡田以蔵について

 

などなど、詳しく解説していきたいと思います!

岡田以蔵(人斬り以蔵)の生涯!

岡田以蔵は1838年に土佐藩の下級武士の家に生まれました。

 

岡田以蔵の前半生はあまりわかってはいませんが、少年時代に過激な攘夷思想を持っていた土佐勤王党のリーダーであった武市半平太に剣術を学ぶとのちに土佐勤王党に加盟。

 

土佐勤王党のメンバーとして王政復古を成し遂げようと活躍する傍らで、王政復古の邪魔になる人物を殺害するという天誅を行い始めバサバサと殺害事件を起こしてしまいます。

岡田以蔵は土佐勤王党のメンバーと共に当時土佐藩下目付であった井上佐市郎の暗殺に参加。

その後、安政の大獄に関与した与力を殺害し、さらには安政の大獄を主導した長野主膳の愛人を晒し者にするなどの凶行を行い、京都町奉行の役人を斬り殺すなど邪魔なものを抹殺していく始末。

 

このため、後世には「人斬り以蔵」と京都では恐れられることになります。

 

しかし、岡田以蔵はやりすぎました。

彼が所属していた土佐勤王党は八月十八日の政変が起こり、尊王攘夷派の勢いが低迷すると側近である吉田東洋らを土佐勤王党によって殺されていた土佐藩主の山内豊信は逮捕を命令。

 

以蔵はというと同じく尊王攘夷派であった高杉晋作の居候となり、さらには坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛になるなどのツテを得ますが、いつしか酒に溺れ、借金漬けの生活に陥るといつしか無宿者に転落

 

1864年に京都所司代に商家への押し入りの罪で入れ墨を入れて京都からの追放処分を受けると同時に土佐藩士に逮捕

土佐藩に護送され拷問を受けた末に打ち首獄門によってこの世を去りました。

そもそも実在したのか?

元々農民のような武士の生まれであり、さらには天誅の行為以外にはあまり史料には出ていませんので架空の人物だとも言われていますが、彼が所属していた土佐勤王党には断片的に以蔵が所属していたという部分が確認できるため一応は実在の人物だと言えることができます。

しかし、それ以外の全ての史料が少ないので全体像は分かっていないのです。

岡田以蔵の刀

以蔵は天誅の名人といわれていたこともあってかそれを実行する道具である刀にこだわりを持っていました。

そんな彼の愛刀が「肥前忠広」という名刀。

 

この肥前忠広は元々は龍馬の刀であったといわれていますが、龍馬の兄が以蔵に送ったと伝えられています。

岡田以蔵の身長

岡田以蔵の身長は残念なことに分かっていません。

それもそのはず、まず写真は現存していませんし、身長を記した史料も出ていません。

 

しかし、当時の日本人の平均身長は大体155センチだったそうですから岡田以蔵もこれぐらいだったのではないかと思います。

岡田以蔵の最期

岡田以蔵が京都から抜け出したあと、八月十八日の政変が勃発。

これによって尊王攘夷派が強かった京都から尊王攘夷派の公家や長州藩などが追放され、それとともに土佐勤王党も一気に規制対象となり武市ら土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられます。

 

岡田以蔵は京都に潜伏している途中に土佐藩士に捕縛されて土佐藩に送還されると土佐勤王党のメンバーとして暗殺事件の供述をさせるために拷問を開始。

土佐勤王党のメンバーはことごとく口を割ることをしませんでしたが、よりにもよって以蔵は拷問に耐え切れることができず口を割ってしまいます。

 

武市は彼が臆病だとわかっており、口を割らないために毒殺しておこうと思案したという説がありますが、兎にも角にもこの以蔵の供述によって土佐勤王党の犯行が次々と明らかとなり、武市は以蔵のことを「以蔵は誠に日本一の泣きみそだ」と愚痴をこぼしたそうです。

 

そして武市半平太は切腹。

さらには潜伏していた土佐勤王党のメンバーも次々逮捕されるなど土佐勤王党が崩壊するきっかけとなりました。

そして以蔵も1865年に打ち首獄門が言い渡され28歳の生涯に幕を閉じました。

 

辞世の句の『君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空』

君が為の君の部分は武市半平太か天皇陛下のどちらかと言われていますが、どちらにせよかなり寂しい句となっています。

岡田以蔵の墓

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岡田以蔵の墓は高知県高知市の真宗寺山の頂上付近にあります。

とても物静かな山なんですか、岡田以蔵のもの寂しい生涯に心を打たれる人は多く、今も墓には献花が絶えません。

岡田以蔵と坂本龍馬の関係

岡田以蔵と坂本龍馬。

一見全く関係のない二人と思いますが、坂本龍馬は元々土佐勤王党の出身であり、岡田以蔵と顔見知りであったことは間違いないと思います。

 

さらに、坂本龍馬は勝海舟の護衛に岡田以蔵を推薦したと勝海舟の自伝『氷川清話』に載っているので彼の腕を買っていたということもわかります。

岡田以蔵と新撰組の関係

京都で天誅を行なった岡田以蔵ですが、それを取り締まる組織だったのが新撰組でした。

そうなると岡田以蔵は新撰組の敵となるのですが、残念なことにこの両者が対決したことはありませんし、さらには出来ない状態にありました。

 

まず、大前提として新撰組の前身である壬生浪士組が成立したのが1863年の2月。

その頃岡田以蔵が何をしていたのかというと京都を離れて江戸に向かい、高杉晋作の居候となっていました。

つまり、新撰組が取り締まりを行うようになる時には岡田以蔵は京都におらず、そもそも対決することはなかったのです。

 

その後岡田以蔵は1864年に刑死。

新撰組が大躍進する池田屋事件が起こる1ヶ月前にこの世を去っていたのでした。

龍馬伝での岡田以蔵

2010年の大河ドラマである龍馬伝

土佐藩士であり土佐勤王党に所属していた坂本龍馬を主人公にしていましたからもちろん岡田以蔵も出演しています。

 

岡田以蔵といえば『人斬り以蔵』と言われているからかかなり冷徹なイメージを持たれていますが、この龍馬伝では「単純で純粋ゆえに周りから利用される可哀想な存在」となっています。

佐藤健の迫真の演技

そんな岡田以蔵を演じたのが佐藤健

司馬遼太郎の新しい視点から見た岡田以蔵を見事に演じてくれましたが、やはり一番良かったのが捕縛後の拷問を受ける中での演技だったと思います。

拷問を受けて絶望しながら涙を流すそのシーンはとても良いものだったと思います。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

  • 岡田以蔵は土佐藩に生まれ、土佐勤王党に入り天誅を行なっていった
  • 岡田以蔵は坂本龍馬の兄からもらった肥前忠広を愛用していた
  • 岡田以蔵と坂本龍馬は同じ土佐勤王党のメンバーであり、坂本龍馬は岡田以蔵に勝海舟を紹介した

 

最後になりましたが、岡田以蔵のその寂しい生涯は幕末好きの人に好かれており、今ではその評価を見直そうという動きも出ています。

岡田以蔵の史料がでて少しでも彼の評価が変わってくれればいいですね。

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